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そうだ京都にいこう

夏期大学から4日ほど経った頃、
そうだ京都にいこう、をすることにしました。
思い立ち、または来ちゃった感があります。

だって追試を免れることが出来たし、
長らく行きたいと思っていたものの
いつも空いてない桂離宮の予約が空いているし、
これを逃したらしばらく週1の休みになるし。

ちなみに、桂離宮を拝むことはできたけれど、
なんと屋根の葺き替えで建物の1/3が足場で
包まれていて、一部のみを見る体験となりました。

Webで確認してから予約をしたはずだけれども
やはり気もそぞろ、目的は後付けしないのが良い。

とは言えど、残り1/3から空気を感じることは出来たし、
葺き替えられたばかりのその屋根は
いわゆる写真で見たその場所の印象を変えるものでもあったし、
しかしながら時間を経た下部と調和が取れている場所でした。
新しくも丁寧な仕事。無理がなくいいなと思いました。

と、気づくと
施術の予約をしていまして、
出てきた疑問を半月の間ぶらりとさげながら過ごしました。

長く連れ添ってきた気質が、いきなり変わったら
びっくりしちゃうことも有るのかなあとぼんやり。
以前の記事から

今日の朝、というか先程、
先生方に施術(話をして)いただいて、腑に落ち度が一段深まりました。

先生は手法として、施術室にいくつかの設計的ポイントを置いておられます。
それは元インテリアコーディネーター(IC)として聞き馴染みのある、
しかしながらも感心してしまうものでした。

そのポイントでつくり出そうとしていることは、
まずフラットな状態に、中庸な状態に、
その土地や場の特性から考えうるある状態から、まず引きあげる。
それから診る。診やすい状態にする?

これは私がいま学んでいる物理のことでも
言えることなのではないかと思ったのです。
体を支えられれば、余計な労力をなくせる。
いいじゃないですか、との言葉に、地味に前向きな直感を捉えられた。
つまり、どちらもいる、ということ!

過去のしごとで言うなれば
ICとして表面上に求められることは目に見える内装だったけれど、
設計的な視線を持つことはとても大事にしてたことであり、
考えてたのしく、お客さまと話してたのしく。
そして抜け落ちると、けっこう打撃がくるもの。

そして、夏に改めて学んだ経絡治療という考え方は、
ある意味でICにおける内装イメージの変え方に似ている。
人によって落ち着くことの出来る、求める空間はちがう。
ラフな場、無骨な場、上品な場、かわいい場。

すべての場を作ることがプロとして求められるけれど
私という1人が実感できるものは限られているのも変わらない。

ただし、形に起こさず、汎用性のあるhappyに向かわす、
その1点のみが目的というのは大きく異なる所です。

虚症のすべてを実感出来ない事を念頭に、皆がそれぞれ変人であるかのごとく、
話をきいて、教えてもらい、そこから言葉にしていくべきものだなあとおもう。

そしてひろくいうのであれば、
多くの人に向けられた平均値というものは、
人ひとりにとっての平均値ではないということ。

happyと言葉が出てきたけれど、
今の私の言葉で言うのなら、『身軽さ』だとおもう。

今という時や場から、
指先が動き出したくなったり
脚を運びたくなったり
声にだしたくなったりする。

黄帝内経には、内因つまり感情が
色々な物事を作り出していく、と書いてあるそうだ。

原文を読んでおらず、あまり考えず、色々なものが同時並行に記されているイメージがあったけれど、そうであるらしい。

体の張り方の話のはなしを聞いた。
心の感情のみが弛緩し、
他の4つの感情は緊張する、らしい。
(この蔵に対する五志をどう書くか...)

今日、背側膀胱経の待ち時間、つまり静の時間、
頭がフル回転でhappyで身軽な気持ちになった。
考えすぎる時の頭と違うのだよな。

先生方と話していると分かったような気になるけれど、
いざ自分の言葉にしてみようとすると全然ちがったものになってしまう。
ここまでくるのに、長い時間がかかったのだろうなと尊敬をする。

ゆるやかに分ける思考を見習いたい。
いつのまにか分けてしまって、話をしてやっと、
つまるところ同一のものが大事だと気付けます。

そして話は変わって、今日の運はすべて出し切った様子。
是非とも食べたかったお店に開店と同時に行くも満席。(実は昨日も)
予約が宜しいようで。里芋の何某が食べたかった。

ひとつ減って、またひとつ。
またの機会にまわします。