(109)消された不名誉な記録
好太王の墓とされる将軍塚古墳(Wikipedia)
好太王碑に刻まれている「倭」関連記事は、
①以辛卯年來渡海破百残□□新羅以爲臣民
②九年己亥百残違誓與倭和通
③王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人満其國境潰破城池
④十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退□□□□□□□□來背息追至任那加羅從抜城城即歸服安羅人戍兵抜新羅城□(扈?)城倭満倭潰城
⑤十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界
⑥倭寇潰敗斬殺無數
の6件です。
①については前節で紹介しました。
②の「九年」は好太王即位9年目のことでしょうから西暦399年のことで、「百済國が誓いを違えて倭と通じた」と言っています。『三國史記』百済本紀では、397年、阿莘王が腆支太子を人質に倭國と修好を結んだ記事が見えています。
③は同じ年の出来事です。「白王」の「白」は新羅の古名「斯盧」でしょう。好太王が百済國を討つため平穰にきたとき新羅から使者があって、「倭人が国境に満ちて城池を破壊している」と告げてきた、という記事です。
④は西暦400年のことで、③を受けています。概略「新羅王の要請に応じて五万の歩騎(歩兵と騎馬隊)を送ったら新羅城に満ちていた倭賊は撤退していった」という内容です。ということは、「倭」ないし「倭賊」が新羅城を占領していたことになります。新羅王が前年送った使者は、火急の事態を伝える急使だったのです。
8文字分の欠損のあと続くのは、王の軍兵は任那加羅の諸城を抜いて「倭を)追い詰めたのだが、安羅國の兵が新羅城を占領してしまった、という内容です。好太王の軍は戦いに勝ったものの、伸びすぎた戦線の隙を突かれた形になりました。
ですが、『三國史記』新羅本紀の實聖王元年(402)三月条には「與倭國通好以奈勿王子未斯欣爲質」(奈勿王の子・未斯欣を以って質とし倭國と好みを通ず)とあって、倭國と交戦状態にありません。『三國史記』が間違っていることになりますが、新羅寄りに編纂された『三國史記』は、新羅國にとって不名誉な事実を割愛(消した)したのでしょう。
このとき好太王は慕容燕國とも交戦状態にあって、新羅國にばかりかまけている時間はありませんでした。安羅國の軍兵が新羅城を占拠してしまったので、高句麗軍は長居は無用と故地に引き揚げ、新羅國は質を差し出して倭國と和議を結んだ、というのが正しい経緯のように思われます。
⑥の「帯方界」を「倭人伝」にいう帯方郡庁とすれば現在のソウル市近辺ですが、西晋末(3世紀末)の帯方郡庁は平壌付近に移っていたと考えられています。「倭」は好太王が鴨緑江岸で慕容燕と対峙している隙を突いたのです。
⑦は「十七年丁未」の直前に記載されているので408年のことと推測できます。ここでは「倭寇」となっていて、「斬殺無數」ですから好太王の大勝利でした。ただし⑤⑥の記録は、『三國史記』高句麗本紀に載っていません。平壌近くまで「倭」に攻め込まれたという不名誉な記録を削除したのでしょうか。