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軍艦『多摩』の生涯と大國魂神社:大澤賢

写真はWikipedia「多摩 (軽巡洋艦)」から

 東京・府中市のランドマーク・大國魂(おおくにたま)神社は鎮座1900年。別名『六所宮(ろくしょぐう)』と呼ばれ、周辺は7世紀後半に武蔵国(むさしのくに)の国府が置かれた。また鎌倉時代には討幕の戦場となり、江戸時代は甲州街道の宿場町として発展した。
 毎年5月の「くらやみ祭り」(例大祭)は各地から数10万人が集まる人気の場所だ。もっとも平日の境内は、こどもの手を引いた母親や静かに一礼して通り過ぎるサラリーマンなどの姿が目立つ。神社は歴史と伝統、そして庶民性を兼ね備えた祈りの場所である。
 参道の中ほど随神門の手前に、石造りの鳥居と灯籠に囲まれた大きな『忠魂碑』があり、裏面には西南戦争から太平洋戦争まで府中出身の戦没者820名の名前が刻まれている。
 その敷地の一角に、高さ1メートル、幅1・5メートルほどの石碑が置かれている。近づいてみると、『大日本帝国海軍 軍艦多摩戦没者慰霊碑』とある。
 この慰霊碑がなぜ大國魂神社に設置されたのか、そして『多摩』とはどんな軍艦だったのか、ずっと気になっていた。9月初めの暑い日、改めて慰霊碑の前に立った。

●新鋭艦だが警戒・補給が中心
 拝礼して慰霊碑の裏を見る。建立の趣旨と『多摩』の略歴が書かれている。同艦は「大正7年8月三菱造船(現三菱重工業)長崎造船所において起工、同10年1月竣工」した。竣工は1921年で、ふと同造船所で建造された巨大戦艦『武蔵』(42年8月竣工)を思い出した。

 略歴には「球磨(くま)型二等巡洋艦二番艦、基準排水量5100トン、全長162・15メートル、全幅14・17メートル、速力36節(ノット)」とある。艦名は武蔵国の多摩川にちなむ。巡洋艦は戦艦と駆逐艦との中間的存在で、強力な攻撃力と高速度で海上戦闘を有利に導く役割を持つ。2等巡洋艦とは、1等(重)巡洋艦より一回り小さい艦のこと。
 同神社と戦史資料によると、第1次世界大戦(1914年7月~18年11月)中に起工された『多摩』は、軽巡とはいえ口径14センチ砲7基7門、8センチ高角砲2門のほか、魚雷16本、機雷150固などを装備した新鋭艦だった。船体中央の3本煙突が特徴で、高馬力・航続距離が長いことを表している。 
 華々しい戦歴はないが、珍しい記録が残っている。1925(大正14)年7月、軽井沢でエドガー・A・バンクロフト駐日米大使が急死した。この時『多摩』は礼送(遺体搬送船)を担った。同年8月初め横浜港を出発、同下旬サンフランシスコに到着し、丁重に遺体を引き渡した。そのあと「カリフォルニア州合衆国参加75年祭」にも参加したという。
 『多摩』は38(昭和13)年、台湾・高尾を拠点に中国南部で警備活動に従事。41(同16)年7月、連合艦隊第5艦隊に編入。同年12月、太平洋戦争がはじまると青森県大湊(おおみなと)警備府を基地に北海道、千島列島方面の哨戒(敵の襲撃に備えること)にあたった。
 42年5月アリューシャン攻略作戦を支援、同年10月同第2次攻略戦に従事、43年3月アッツ島への輸送船団の護衛、同7月はキスカ島撤収作戦で護衛に従事したあと、44年6月には硫黄島へ陸軍部隊の輸送を行っている。翌年の硫黄島“玉砕”は有名だ。

●「囮作戦」に参加、壮絶な最期
 『多摩』の最後の出撃は、44年10月24~26日フィリピン沖で展開された大海戦「レイテ沖海戦」だった。竣工後すでに23年余。たびたび改装・重武装化してきたとはいえ、老朽艦には厳しい任務だった。慰霊碑には「捷(しょう)1号作戦フィリピン・エンガノ岬沖海戦参加。米潜水艦ジャラオによる被雷3本、海没」と書かれている。
 『多摩』の最期は壮絶だったと思われる。生存者が1人もいない事実が裏付ける。同作戦で日本側は戦艦大和や武蔵、空母瑞鶴など主力艦60隻以上と数百機の航空機を投入、レイテ島に上陸したマッカーサー大将率いる米軍の殲滅を目指した。爆弾を抱えて敵艦に突っ込む特別攻撃隊(特攻隊)が初めて出撃した。だが米軍の圧倒的な火力・空軍力の下、武蔵など主力艦30隻と航空機多数、そして多くの将兵を失い日本軍は敗退した。
 この海戦で『多摩』は、米機動部隊をフィリピン北方海域に引き付ける、小沢治三郎中将指揮の機動部隊・別名囮(おとり)部隊の1艦として参加した。神社資料には「25日朝より敵機動部隊と交戦し機関室に被雷、速力が低下、午後5時30分本隊から離れ、護衛する駆逐艦もないまま呉へ単艦北上中、哨戒中の米潜水艦ジャラオに捕捉された」とある。
 大岡昇平著『レイテ戦記』(中公文庫)によると、「小沢艦隊は破砕艦の群れとなっていた。(中略)航空戦艦伊勢、軽巡の多摩が重油の後を引きながら10~20ノットでやはり北上した」との記述がある。多くの負傷者を載せ満身創痍の『多摩』が、必死に日本を目指して進む姿が目に浮かぶ。だが米潜水艦は容赦なく攻撃した。
 沈没地点は、沖縄からフィリピン方面へ約600キロメートル離れた太平洋。慰霊碑は「北緯21度23分、東経127度19分、時間午後11時10分」、「艦長山本岩多大佐以下総員戦死」と記す。航空機で捜索したが見つからず、軍は11月6日「沈没と認定」した。400名以上とされる乗組員全員が戦死したが、今もなお正確な人数や氏名は判明していない。

●10年前から毎年「慰霊祭」開く
 『多摩』には艦内神社として、大國魂神社が祀られていた。竣工翌年の22年5月「軍艦多摩鎮祭のため移霊祭を奉仕」(慰霊碑)。以後、歴代艦長らは例大祭などで同神社を参拝し武運を祈った。33(昭和8)年8月には艦長と乗組員405名参拝との記録が残っている。
『多摩』の初の慰霊祭が行われたのは2014(平成26)年10月25日である。沈没してからちょうど70年の節目の年だった。慰霊碑の建立者として大國魂神社宮司・猿渡(さわたり)昌盛氏、軍艦多摩顕彰会、大國魂神社氏子青年崇敬会の名が彫られている。
 「猿渡宮司は多摩の名前を冠した軍艦と、運命を共にした戦没者のことをずっと気にしていました。沈没後70年を機に、ぜひ慰霊祭を行おうと氏子青年会などに働きかけたのです」と語るのは、同神社の金子道有禰宜(ねぎ)。猿渡宮司の胸中を察すれば、海没したままの乗組員と分霊した神社の御霊(みたま)を、なんとしても呼び戻したかったのだろう。
 とはいえ遺族探しは難航した。最後の艦長山本岩多氏の長男とは連絡が取れたが、多くの乗組員らの情報は得られなかった。「水交会」(旧海軍戦没者と海上自衛隊殉職者の慰霊・顕彰・親睦などを行う団体)、国立公文書館、国会図書館、厚生労働省、防衛省などを訪ね、靖国神社や各地護国神社にも問い合わせた。市記者クラブに資料を配布してメディアの協力も求めた。その結果、最初の慰霊祭までに30名の戦没者の名前が確認できた。
 慰霊祭の骨格が固まった14年10月4日、大國魂神社の代表は沖縄に出かけて乗組員の御霊の「招魂祭」を行った。当初は沖縄南方海上で実施する予定だったが、台風による悪天候で断念。急遽、沖縄県護国神社の開館を借りて開催した。
 初の慰霊祭から10年。沈没80 年の今年も10月25日に慰霊祭を行う。慰霊碑は「軍艦多摩と戦死した英霊を鎮め、世界の恒久平和を祈念してこの碑を建立する」で終わる。
 戦後79年間、日本は1人も戦死者を出していない。石碑は、平和をもたらした多くの犠牲者の存在と戦後の平和国家としての歩みを、今一度かみしめるよう静かに訴えている。  

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