(141)軽王と衣通姫の悲恋はなかった
茅渟宮跡(泉佐野市観光協会)
忍坂大中姫は木梨のカル(軽)王、名形のオホイラツメ(大娘)王女、アナホ(穴穂)王、坂合のクロヒコ(黒彦)王、カル(軽)王女、八釣のシロヒコ(白彦)王、大泊瀬のワカタケル(幼武)王、但馬のタチバナ(橘)王女、サカミ(酒見)王女の5男4女を生んでいます。夫の雄朝津間大王は即位8年で河内の茅渟宮に転居し、以後は事実上別居状態でした。5男4女というのはもちろん創作です。
このうち長男で太子の軽王は王位継承資格を剥奪され、次男の穴穂王が第20代大王(安康)、五男の大泊瀬の幼武王が第21代大王(雄略)となっています。穴穂、幼武の2代についてはいろいろあるのですが、まずは軽王の粛清から済ませましょう。
広く知られるのは、軽王と衣通姫のエピソードです。しかし『書紀』では、衣通姫は忍坂大中姫の妹で、雄朝津間大王の愛人ということになっています。軽王の相手は母を同じくする妹の軽王女です。軽王と軽女王という名前の同期は、『書紀』ならず神話の鉄則と言っていいでしょう。
軽女王は雄朝津間大王二十四年に軽王との「許されざる恋」が表沙汰になって伊予に流罪となり、軽王はその18年後、雄朝津間大王が没したとき、弟の穴穂王に滅ぼされています。同母の妹と情を通じたことが群臣の支持を失った原因ではあっても、相対死はしていません。『古事記』の所伝と混同されるのは、衣通姫と軽王女が同一人物とされているためなのです。
注目されるのは、密かに兵を整えた軽王が準備した武器が「軽括箭」、それを知って兵を興した穴穂王の陣営が備えたのは「穴穗括箭」だったという件です。「軽括箭」はカルヤ、「穴穂括箭」はアナホヤと読んでいて、軽王が用意したのは軽い矢だったと解釈されています。ではアナホヤは重い矢なのかというと、そのような解釈は成り立っていないようです。
『古事記』には「爾時所作矢者 銅其箭之内 故号其矢謂軽箭」(其の箭の内を銅とせり。故、其の矢を號けて輕箭と謂う)「此王子(穴穂王)所作之矢者 即今時之矢者也 是謂穴穂箭」(此の王子の作れる矢は即ち今時の矢ぞ。是は、穴穗箭と謂う)とあって、そうするとアナホヤは鉄製だったことになります。
同じ時代の武器がそんなに違うことはないはずですが、つまり軽王は古い陣営、穴穂王は今現在の主流派というような意味合いでしょうか。
これに関連して、鏃が銅か鉄かではなく、「軽」はカルガモの羽を使っていたので飛距離や的中率が悪く、穴穂はタカの羽を使っていたので遠くからでも正確に的を射ることができたのだ、という指摘もあります。鷦鷯といい木菟、雌鳥、隼、白鳥、百舌鳥といい、この王朝は何かと鳥に縁があるようです。
もう一つ、軽王は穴穂王の軍勢には敵わないと見て、物部大前宿禰の家に逃げ込もうとします。去来穂別大王(履中)の后が物部系の草香幡梭王女だったことから分かるように、物部一族はかなり早い時点で難波王朝の中枢に入り込んでいたと思われます。
しかし王は門前で拒否されてしまいます。最も頼りにした宮臣に裏切られて、軽王は自刃するしかなかったのですが、この所伝の実際は穴穂王のクーデターだったのでしょう。