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東京都がカスハラ防止条例制定へ “水に落ちた犬は叩け”にネットが拍車をかけるという誤解:佃均

 東京都が今年秋にも全国初となる「カスタマーハラスメント(カスハラ)防止条例」を制定するそうです。報道によると、条例はカスハラの要件を定義するにとどめ、罰則は既存の法令に委ねるということです。つばさの党の選挙妨害に道路交通法や刑法(暴行、傷害、器物破損等)を適用したやり方で、賢明な方策といえると思います。
 パワハラ(力関係)、セクハラ(性差)、モラハラ(モラル)、マタハラ(女性の妊娠・出産・育児)、パタハラ(男性の育児・看護)、アルハラ(飲酒・宴会)、ケアハラ(看護・介護)、カスハラ……とハラスメントは世に蔓延しています。共通しているのは、強い立場にある人が対応者の人格を否定する暴言を吐いたり、常識の範囲を超えた過度な要求や暴力を振るうことです。
 一般的にハラスメントは、第一段階:社会的規範・秩序への違反、第二段階:法令・条例の規定に該当、第三段階:民法上の権利侵害、第四段階:刑法における犯罪行為とレベル分けされます。東京都の場合は、カスハラを第二段階で抑制しようというわけです。

■ハラスメントの蔓延はネットと同期か
 ハラスメントの加害者は「そんなつもりはなかった」と繰り返します。「もし〜だったら申し訳なかった」と弁明するのも同じです。当人にとっては特別なことではなく、極端にいうと日常茶飯事だからでしょう。なぜそれがハラスメントなのか理解できないまま謝罪を要求され、事態を収めるため「とりあえず」謝っておこう、というのが実情だと思います。
 なぜ人は感情の起伏を隠すことなく、自身の言葉で感情を煽ってしまうのか。それを考えると、日常的な安易な付和雷同がその起点にあることに気がつきます。ちょっと話題になったレストランに大行列ができ、人目を引く造語、略語が本来の意味から外れて大流行りする(バズる)。小さなミスを見つけて鬼の首を取ったように大騒ぎする炎上、事件の被害者に対する誹謗中傷も珍しくなくなりました。
 しかし個々の人に目を移すと、感覚的には「いいね!」をポチるのと同じです。「見たよ」の合図のようなもので、それ以上でもそれ以下でもありません。積極的に同意し支持しているのでもなければ、状況を理解した上で批判・非難しているのでもありません。安易な付和雷同がバズワード、炎上、誹謗中傷の嵐を起こします。
 最初は付和雷同の一人だったのが、承認欲求に駆られて前面に出たくなってきます。聴衆の中に埋没している自分に耐え切れず、壇の上でアジってみたくなる。壇に上がると気分が高揚し、思ってもいない過激な言葉が出てしまう。本音、本性が露出するのです。
 ハラスメントが社会的な問題として取り上げられるようになったのが2010年前後とすると、スマートフォン(いわゆる「ネット」)が炎上を生み、“水に落ちた犬”を叩き放題に叩くことが日常化しました。“みんなで渡れば怖くない”のです。こうした動きはネットの普及と同期しているように見えてきます。

■取引関係にある組織内カスハラは表に出ない
 ですが、「ハラスメントが蔓延した要因はネット」というのは誤解かもしれません。ネットはキレイゴトの表層に埋没していたC to Cのハラスメント事象を顕在化したに過ぎず、B to C/B to Bのハラスメントはまだまだ掘り起こされていません。 
 B to Bのハラスメントは、内容次第で下請け法で対応できるかもしれません。しかし発注者側担当者による受注者側担当者へのハラスメントは、組織内で行われているため表に出ることがありません。個人と組織が渾然一体となっているためです。
 例えば、取引き上の優位な立場にある者が、業務の遂行に必要な情報や資材を提供せず、そのために業務を完了できない取引先の個人を責め立てる。技能ばかりでなく、知能、人格を否定するような暴言を連日浴びせる。
 受注者側の担当者(例えば派遣要員)が抵抗する姿勢を見せると、発注先に「能力不足」を理由に要員の交代を要求する。システム開発やIT運用管理の現場でしばしば起こっている問題です。
 被害に遭っている個人が告発を行おうとしても、取引きにおける組織と組織の契約が邪魔をします。言質・行為の立証ばかりでなく、当該個人(加害者、被害者)の管理責任がどこに帰属するかも問われます。悔しさを抱えたまま泣き寝入りするケースが大半でしょう。
 店頭や受付窓口での「見えるカスハラ」は条例で規制できますが、組織内で行われる「見えないカスハラ」を是正するには、裁判しかないのでしょうか。そのようなハラスメントはどれほどあるのか、それを規制し、被害者保護・加害者処罰の方策はないものか、というのが目下の関心事です。

■映画館にライオンを連れてきてはいけない
 思い出すのは米合衆国メリーランド州にかつて存在した「映画館にライオンを連れてきてはいけない」という条例です。このほかにも「キリンを電柱につないではいけない」(バーモント州)、「ゾウにビールを飲ませてはいけない」(ミズリー州)等々、自由の国は存外に不自由です。
 あまり関係がないように見えますが、侮蔑の精神が背後に潜んでいることで両者は通底しています。どういうことかといいますと、ライオンを映画館に連れて行った人、キリンを電柱につないだ人は、「自分は他者とは違う(特別な存在)」と主張し、「常識」「良識」に抗います。「常識」「良識」をヨシとする社会、それを是とする人々を軽視し、蔑視するのです。
 ハラスメントの精神構造もよく似ています。
 自由な発想が「常識」「良識」に縛られるのは感心しませんが、かといって一個人が一足飛びに「常識」「良識」を超越することもありません。相互の侮蔑は対立に結びつきます。「常識」「良識」に立ち戻ろう、というと、チコちゃんから「つまんねぇヤツだなあ」と言われるでしょうけれど。  

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