(185)倭済連合の5代を復元する
武寧王墓誌(韓国:国立公州博物館)
古代北東アジアで「倭國」と呼ばれたのは、いわゆる「筑紫」地方で、528年に滅ぼされた筑紫君磐井は倭國王だったというのが本稿の仮説です。ひょっとすると倭と百済は、ときの状況に合わせて同じ王を共立する関係にあったのかもしれない、とも考えています。
おそらく高句麗の長寿王が百済の王城を落として第21代蓋鹵王を処刑した475年がエポックでしょう。『三國史記』百済本紀は「文周乃與木刕満致祖彌桀取南行」(文周は乃ち木刕満致、祖彌桀取と南に行く)と記しています。
文周王は熊津(現在の忠清南道公州市)を新しい都と定めて百済を再興した王(百済第22代)なので、その行き先は熊津と考えるのが自然です。しかし「行南」とあるだけなので、海峡を渡って筑紫に逃れたのかもしれない、という空想を否定することもできません。
このとき王を補佐していた木刕満致が倭國に渡って「蘇我」を名乗った、という見方もあります。「木刕満致=蘇我満智」説で、それはそれで興味深い指摘だと思います。
ここに昆支王という百済王族が登場します。『三國史記』によると文周王の弟、『書紀』によると蓋鹵王の弟ということになっています。倭國に遣わされたのはワカタケル大王五年だった、という『書紀』の年紀に従えば西暦461年ということになります。
『三國史記』は文周王三年(477)秋七月のこととして「内臣佐平昆支卒」と記していいます。文周王が百済王国を再興したとき、倭國から熊津に戻っていたのでしょう。文周王はその翌年の旧暦9月、佐平解仇に謀殺されているので、昆支王はその禍に遭ったのかもしれません。
文周王の嫡男・三斤王が13歳で即位しますが、479年の旧暦11月に亡くなってしまいます。そこで倭國にいた昆支王の王子が熊津に戻って第24代百済王に即位しました。のちに「東城」と諡される王のことです。
『書紀』は「昆支王五子中第二末多王幼年聰明(中略)仍賜兵器幷遣筑紫國軍士五百人衞送於國是爲東城王」(昆支王の五子の中、第二子の末多王は幼年ながら聰明(中略)仍ち兵器を賜い幷せて筑紫國の軍士五百人を遣わし國に衞送し是に東城王と為す)と記します。
すると昆支王の長子=嫡男は倭國にとどまっていたことになります。そして東城王も、その王子も倭國(筑紫)で生まれ育ち、武寧王もまた太子純陁王を倭國に残しています。東城王も武寧王も華夏の南朝に入貢し、新羅と通好して対高句麗防衛戦線を展開しました。倭國の傀儡になった様子は見えません。さらに武寧王は、512年と513年、任那の6県を倭国から譲渡されています。
『書紀』の立場では百済が王統の跡継ぎを人質にするほど倭王権が主導力を持っていた誇らしい歴史になりますし、百済としては屈辱的な歴史になるのですが、どうもそれはこんにちの日韓関係を反映した感想に思えます。
倭済連合は宋に対しては「倭」、斉・梁に対しては「百済」の名で朝貢し、対高句麗戦線で新羅と連携しました。倭國が任那の土地を分割・譲渡しているのは、百済が倭から奪ったのではなく、共立している王の直轄地として倭側から提供したに過ぎないかもしれません。
その阿吽の呼吸は、王だけでなく主要な臣が共通だったから――とすると、昆支王、東城王、武寧王、純陁王、磐井王の5代は、「倭済連合」の視点で再検証する必要があるようです。