(179)『三國史記』は倭地動乱を語らず
武寧王陵出土の金銅製耳飾り(KOREA.net)
本稿が「磐井の乱」がなかったと考える理由の一つは、『三國史記』です。磐井に賄賂を送ってヤマト王権軍の渡海阻止をそそのかしたとされる新羅について、新羅本紀の記述を見てみましょう。
『書紀』が磐井の挙兵を記録するオホド大王廿一年は西暦527年に当たると考えられています。新羅の国王は第23代法興王(金原宗/募泰:在位514~540)で、百済と軍事同盟を結んで高句麗に対抗しつつ、内治の充実を図ったことで知られています。
先代の父王・智證麻立干(麻立干:古代新羅の言葉で「上席者」の意、マリハン/マラハン/マリツカン)のとき、「新羅」の国号と州・郡・県の行政区分を定めました。法興王はその路線を引き継ぎ、17等の官位、百官公服の制を整え、律令を公布しています。また治世15年(528)に仏教を興し、536年に初の年号「建元」を立てています。
対外的な活動では、521年に華夏帝国の梁に朝貢し、522年には伽耶國王と修好しました。その12年後の534年、金官國(本伽耶國)の国王・金仇亥一族が投降してきました。「授位上等以本國爲食邑子武力仕至角干」(上等の位を授け本国を以って食邑と為す。子の武力は仕えて角干に至る)とあります。倭地(九州)で動乱があったというような記事はどこにもありません。
百済は第24代武寧王(斯摩/余隆、在位502~523)と第25代聖王(明、在位523~554)の時代です。この時期の百済は、502年から506年ごろまで疫病が流行し、520年ごろは洪水、地震、蝗害に悩まされました。加えて高句麗との戦いが続いていました。
521年、新羅国使を伴って梁に朝貢し、538年に王都を熊津から泗沘に移しています。熊津は現在の忠清南道公州市、泗沘は同じく忠清南道の扶余郡で、併せて百済は国号を「南扶余」と改めました。ここにも倭地の動乱は一行も出てきません。
武寧王は本名を「斯摩」といい、それは「筑紫各羅嶋」(佐賀県松浦半島沖4kmの加羅島)で誕生したことに因んでいます。41歳まで倭國で暮らしていましたが、501年に実父の東城王が暗殺されたので熊津に戻って即位しました。倭國と縁が深いだけでなく、旧弁韓の残存地域=任那の小邑國(上下哆唎、娑陀、牟婁、己汶、滞沙)の統治権を倭國から譲り受けています。
『三國史記』は1145年に新羅王族の後裔である金富軾が編纂した歴史書です。当該の時代から600年もあとに完成した書物ですので、倭ないし倭国関係の資料が失われていた可能性は捨てきれません。ですが富軾は多くの外国資料を駆使しているので、『書紀』『古事記』にも目を通していたでしょう。
また富軾は、「梁書にはこう書いてあるけれど、実際はこうだ」とか「古語ではこう書いているのだが、それは決して野卑ではない」といった注・評を加えています。倭地の動乱ばかりでなく、その遠因となった新羅による任那侵略が全く触れられていないのは不自然です。「磐井の乱」はなかったのでしょう。