(175)倭王権が内向きに転じた事情
傍丘磐坏丘北陵(伝武烈天皇陵:奈良県香芝市)
これまでの話と一部が重複します。
6世紀初頭から前半にかけて、倭地には大事件が起こっていました。その第1は王統の交代と混乱、第2は筑紫君磐井の滅亡、第3は朝鮮半島南部(伽耶地域)における倭王権の支配力低減です。
まず王統の交代を見ると、506年に播磨王家が途絶え、越王家のオホド(男大迹)王がヤマト王権の大王に推戴されました。難波王朝から播磨王家への交代は禅定でした。それに対して播磨王家から越王家への王権移動は、ヤマト在郷氏族が主導したのが特徴です。ちなみに王統の年紀は『書紀』に記載される大王の崩年干支と崩齢を元に作成した歴代大王在位年表等に依っています。
『書紀』は第24代オケ王(意祁/大石:仁賢)の唯一の男児であるオハツセのワカササギ王(小泊瀬稚鷦鷯:武烈)「元無男女可絶繼嗣」(元より男女無く継嗣絶ゆべし)と伝えます。後を継ぐ男子も女子も無かった、というのですが、ワカササギ王にはテシラカ(手白香)王女という姉がいたことになっています。直系男子を相続の原則とする習俗は、華夏からもたらされた儒教によるものでしょう。
「オハツセのワカササギ」は王朝の初代オホササギ(大鷦鷯)、宋皇帝から諡号を頂戴したオホハツセのワカタケ(大泊瀬幼武)を足して2で割ったような名前です。初代は聖王、後嗣断絶の末代は悪王というのも儒教的形式主義の表れです。オハツセのワカササギ王の死去が12月というのが、作為を端的に示しています。翌年の正月から新しい大王の時代が始まる、という設定だからです。
つまりオハツセのワカササギ王は『書紀』編者の創作になる架空の大王です。播磨王家は西暦498年、オケ王の死に伴ってテシラカ王女が大王位を継いだ、と考えるのが自然ですが、ひょっとするとそのような推測自体が『書紀』の術中にはまっているのかもしれません。大王が空位のまま、血縁関係が深い女王が群臣統合のシンボルとして推戴されていたというべきでしょう。
『書紀』によると、大伴金村や物部麁鹿火、許勢男人ら宮廷の重臣が協議して越のオホド王に白羽の矢を立てたとしています。ところがオホド王が奈良盆地に入ったのは20年後の秋のことでした。ヤマト王統の空白はオケ王が亡くなった498年からオホド王が奈良盆地に起居を定めた526年まで、28年に及びます。
この時期の朝鮮半島は、百済と新羅が連合して高句麗と対峙する構図が続いていました。『三國史記』に登場する倭は、新羅本紀・照知麻立干十九年(497)「倭人犯邊」(倭人、辺を犯す)、同二十二年(500)「倭人攻陥長峯鎮」(倭人、長峯の鎮を攻陥す)の2回だけです。「倭国」でなく「倭人」となっているのが注目されます。
いずれも倭寇の記事であって、組織的・計画的な軍事行動ではありません。およそ1世紀前、新羅の王城(金城)を占拠し、高句麗の大軍を引き回し、慕容燕軍と好太王軍が対峙している間隙を縫ってゲリラ戦を仕掛けた倭の面影はすっかり消えてしまいました。
倭王権は完全に内向き指向に転換しています。華夏の南朝(斉、梁)への遣使も絶えるのは、そのような事情を反映しているのでしょう。