(106)阿莘王、倭國と好を結ぶ

106南漢山城

南漢山城(SEOULNAVI)

華夏の古文書は4世紀の倭人について、動静を伝えていません。ところがその「空白」は朝鮮半島の歴史書が埋めてくれます。なかでも高句麗・好太王碑文は一級を超えて特急の史料です。

そこに「倭」の大規模な組織的軍事活動が記されているのは周知の通りです。ところが難解な表記があったり、1600年近く野ざらしにされてきたため一部に欠落があったりで、発見された明治十三年(1880)以来、大きな謎とされてきました。

碑文に入る前に、なぜ高句麗國と「倭」が戦戈を交えることになったのか、その経緯を見ておきます。

前節の続きですが、百済王国の辰斯王が狗原行宮で薨じた392年のこととして、『三國史記』は「秋七月高句麗王談徳帥兵四萬來攻北鄙陥石峴等十餘城」と記しています。ここに見えている「高句麗王談徳」が高句麗國第19代好太(Gwang gaeto)王の諱(実名)です。この年の5月に亡くなった第18代故國壌(Kogugyang)王のあとを受けてわずか2か月後の出来事でした。

高句麗国は第16代故國原王とき、その六年(336)、同十四年(344)と晋帝国に使者を送り、境を接する慕容氏の燕國に対抗するため晋帝国の仲裁ないし応援を求めたものの、返事はつれないものでした。その後も両陣営の対立は続きますが、355年、王は燕國と和議を結ぶことを決意しました。

燕國王は333年、晋帝國から「大将軍開府儀同三司襄公」に敘され、幕府を開く資格を与えられていました。故國原王が和議を申し入れたとき、燕國王・慕容皝(慕容廆の三男・文明皇帝)が故國原王を「征東大将軍営州刺史楽浪公高句麗王」に冊封したのは、「開府儀同三司」の資格に基づいています。これにより両者は後輩の憂いなく、燕國は軍兵を北京(燕地の本貫)奪取に、高句麗國は半島南半に向けることができるようになりました。

百済王が晋帝国から「楽浪太守」に任じられたのは372年です。その17年前に高句麗王は「楽浪公」に叙されています。それでなくとも両者はぶつかったのですが、この叙位任官が両者それぞれに、大同江と漢江の流域平野部(現在の平壌からソウル:京城にかけて)の占有(そのための攻撃)を正当化する根拠を与えることになりました。

392年旧暦7月に発生した高句麗軍による奇襲攻撃は、辰斯王政権に衝撃を与えたことでしょう。これが「十一月薨於狗原行宮」につながったと見るのは、決して故なきことではありません。  

辰斯王の後を受けた阿莘王は、翌393年8月、一万の兵を率いて高句麗に反撃を試みましたが兵站の不備で頓挫しました。次いで394年の遠征も失敗し、396年には漢山城(京畿道広州市)の戦いで大敗を喫しました。

高句麗軍の漢江渡河を許しただけでなく、百済國にとって最北の要害である漢山城を突破されたわけで、百済國は一気に劣勢に陥ります。 そこで阿莘王は六年(397)夏五月「與倭國結好以太子腆支爲質」という奇策に打って出ます。世継ぎを人質にして好(よしみ)を結び、「倭國」の援助を得ようとしたのです。

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