(186)「筑紫」の由来または金印紫綬

186筑紫宮

「筑紫」発祥の地と伝わる筑紫宮(筑紫野市:Wikipediaから)

 オホド王と磐井の乱にかかわって、筑紫の話柄が続きます。本節では「筑紫」の名の由来を取り上げます。

 『書紀』は全30巻のうち「筑紫」の文字が登場しないのは4巻しかありません。初出は巻第一「神代上」の国生みで、本文と「一書」第1・2・4で4番目に「筑紫洲」の文字が出てきます。また『万葉集』巻第20に「都久志能佐伎」(ツクシの崎)とあって、7世紀には「ツクシ」の音もあった可能性が認められます。

 なぜ「ツクシ」というのか――については、『書紀』も『古事記』も由来を説明していません。俗説というか民間に伝えられている由来を探ると、おおむね次の5つです。

 ①筑後と筑前の境にあった馬の鞍を潰すほどの急峻な坂「くらつくしの坂」から。

 ②通りがかる人を見境なく殺した気性の激しい神様「命つくしの神」から。

 ③多勢の人が亡くなって棺桶を作ったため「山の木がつきた」から。

 ④西の陸地が尽きるところだから。

 ⑤太宰府に向かう石畳の道を「築石の道」と呼んだ。「築石」が「ツクシ」になった。

 ①~④は「尽きる」「尽くす」由来説、⑤は音韻転訛説です。いずれも後付けであることは否めません。

 漢字表記の「都久志」は倭音に漢字1文字を当てた万葉仮名ですから脇に置くとして、『書紀』「古事記』は「筑紫」、太宰府出土の木簡には「竺志」、656年に成立した『隋書』東夷伝は「竹斯」とあります。

 「チクシ」が意味するのは九州島、九州北半(現在の福岡県、佐賀県、長崎県、大分県)、福岡県、太宰府がある旧筑紫郡のいずれとも特定できません。一郷名に過ぎなかったヤマトの音が奈良県、日本全体を意味するようになったのと同じことがチクシにも起こったのか、その逆なのか、どちらともはっきりしません。

 ただ広義の筑紫は「豊、筑、火、熊」の4國で成っていたとされています。時代をさかのぼると、筑紫は「筑」と表記されていたか、チクと呼ばれていたのでしょうか。ちなみに「熊」は「熊襲」のことですが、原意は「クマ地方の襲(ソ)族」のこと。

 「魏志倭人伝」にはチク、ツクに類する國名(地名)は記載されていません。するとチク、ツクの音が生まれたのは4世紀以後、つまり邪馬壹国以後ということになってきます。意図的に付けられた地名です。

 そこで気になるのは、「紫」の文字です。なぜ「斯」や「志」ではなかったのでしょうか。

 紫は華夏で最も高貴な色とされ、それは「天の中心で天帝の住む所」された星群「紫微垣」に由来します。「紫微垣」の中央で輝く北極星を「太極」と呼び、皇帝が政治を司る建物を「大極殿」、臣下が紫の衣を着用して出入りすることを禁じたので皇帝が起居する宮殿を「紫禁城」と呼ぶようになりました。

 以下は倭人が漢字を使い熟すようになった時期とかかわるのですが、筑紫を「紫を築く」と解釈するなら、ミニ中華ワールドを指向した倭讃(推定在位382~425)の王城南遷と無縁ではないかもしれません。委奴國王や邪馬壹国王が華夏皇帝から下賜された「金印紫綬」の記憶が「筑紫」の名に引き継がれているように思えます。


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