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触れられないみちゆき

龍は空を飛んでいた。晴れた空、今は雨を降らせる気分でもない。
ふと下を見ると、なにやら白いふわふわしたものが道を進んでいた。綿毛よりも大きく、兎よりは小さい。
長い年を生きてきた龍にも見たことがないものだった。
下界に降りる。
竜の体は大きいため、何本もの木を薙ぎ払うことになった。これは仕方がないことか。
地面に接するのは何百年ぶりだろうか。腹を地面に押し当てて、ふわふわを眺める。
目は、ないようだ。だが一心に進む方向が「前」なのだろう。
足も、ないようだ。だが転がらずに進んでいる。
口や鼻や、手もしくは前足もわからない。
ならば生き物ではないのか。だが、進んでいる様子は、生き物が動いているようだ。
匂いも、どこか嗅ぎ覚えがある。ならばこの森に住むものか。
龍は、触ってみたい、と思った。
見ているだけではその正体がわからないためである。
そ、と前足を伸ばす。
間もなく触れる、と思った瞬間。
バチ!
と衝撃があった。白いふわふわはどこかへ飛んでいってしまった。
聖獣である龍は、魔を祓うのが宿命である。むしろ、魔を祓うからこそ聖獣である。
(自分が触れられなかったとは、なんと、魔の物であったか)
あの色や姿からは魔は感じなかったが、あの衝撃が全てを証明してしまっている。
魔の物ではあったが、進む様子は必死そうだった。
(自分が触ろうとしたばかりに、気の毒なことをした。)

龍はしばらくあたりを見渡したが、あのふわふわは見つからなかった。
しばらく探した後に、あきらめようとした途端、何かが舞った。
茸の胞子だろうか、爪で引っ掛けたか、とその時の龍は考えた。

龍は空を飛んでいた。
いつの間に飛んでいたか。少し記憶があやふやなようだ。
とりあえずは、あの白いふわふわが進んでいた方法へ向かってみることにした。
飛んだ先には、小さな泉があった。
こんなところに泉があっただろうか。龍は長い年月この森を空から眺めていたのだが、この場所には一面の木々が広がっているはずだった。
訝しながらも降りてみることにした。泉に近づいたと思った途端、泉から飛びてた大きな口を開けたものに呑み込まれた。
巨大な龍を呑み込むとは、一体。

呑み込まれた中を飛ぶ。
最初はさすがの龍も驚いたが、入ってみるといつものように飛ぶことができた。だが、自分を呑み込んだものの正体はわからない。囲む壁に近づこうにも、すんでのところで避けられる。どこまでも避けるだなんて、そんなものがあるのか。何処まで広がるのか。ここはどこか。
埒が明かないとして先に進むことにした。

進むうちに、先に光が見えてきた。光に向かって飛んでいく。どんどん強くなる光。龍を光が包む。
目が慣れるとそこは広場だった。白いふわふわが一面に広がっている。大きいものも小さいものもいる。皆一様になにやら動いている。
よく見ると、中央に櫓のようなものが組んであり、その櫓を中心に、円を作って進んでいる。踊っているのか。跳ねながら、入れ代わり立ち代わり円に加わっている。
踊りの円の外側は、どうやら縁日のようだ。小さな小屋掛けの店で、何かをやりとりしている。
歌うもの、話すもの、笑いあうもの。あちらでは喧嘩だろうか、ぶつかり合っているものもいる。随分と賑やかだ。以前見かけた、人間の祭に似ている、と龍は思った。
祭の音と周りの光、ふわふわしたものたちに囲まれ、龍は少し眩暈に似た感覚を覚えた。
やがて、奥の方からざわめきが広がってきた。ふわふわたちが道を開けてゆき、その奥から馬が走ってきた。
その馬には首がなかった。
馬はゆっくりとした足取りで、だが疾走している姿勢で通り過ぎて行った。
僅かに禍々しい気配はあったが、龍の聖性には脅威ではなかった。
通り過ぎて行った後には、再びふわふわが集まり、何ごともなかったかのようにざわめき始めた。夢を見ているようだった。
また別の方向からは、仮面を被って一列に並んだふわふわが行進してきた。しずしずと通り過ぎる。ざわめきが前後を飾る。
それからも、ざわめきに囲まれて異形のものが時折通って行った。周りのふわふわとは断絶された異様な雰囲気のものたちだった。
(なんとも不思議な光景だ)
絶えずざわめきが波のようにさざめいている。
知らず、龍は地面まで降りてきていたようだ。どうやらふわふわの集まりに近づいていたらしい。
みると、皆寄ってきているではないか。触れると弾ける……と思いきや、平気で触れられる。龍はみるみる白いふわふわに纏われた。ふわふわにはやはり手足も顔もない、ただのふわふわ。体を僅かに浮かせて進んでいるようだ。これは、一体。触ることができる、ということは実体ではないのか。だが触れられている実感はある。
龍は、初めて身構えた。この空間は異様だ。無垢なものと邪なものがあまりにも混じり合っている。ならば、ここには龍が考えている以上の魔があるのではないか。なぜ彼らに触れることができるのか。
「君たちは、一体、何だ」
龍が空気を震わせて尋ねる。はたしてこれは現実か。
龍の耳に近いふわふわが、
「そのうちわかります」
と同じく空気を震わせて答える。言葉が通じるようだ。
見ると、ふわふわたちのいる中心が僅かに膨らんでいる。
龍はそこを掻き分け、膨らみを確認しようとした。強くなる嗅ぎ覚えがある匂い。
最後のふわふわを取り除くと、そこに、赤茶色の塊がいた。
「バレてしまいましたか」
そう聞こえたかと思った瞬間、全てが霧散した。

気が付くと、そこは森の中だった。元の場所に木々を薙ぎ倒して龍は倒れていたようだった。
見ると、傍らに狐の子供も倒れていた。ああ、この匂い。
龍が見つめていると、そのうちむっくりと起きだした。
龍の姿を見て驚いたようだった。
「あの白いふわふわはお前だったのか」
龍が話しかける。
子狐は言葉が出ない。
「あの術に巻き込まれたか」
龍を見てあんぐりと口を開けている。
龍はため息をつき、子狐が落ち着くのを待った。
「なにをしていたのだ」
「だ……だって、おいらの邪魔をしたからよ」
精一杯の虚勢だろう。あのふわふわはやはりこの子狐か。
「どこに行くところだったのだ」
子狐はしばらく考えたあと、答えた。
「おじい……師匠に言われたんだよ、あの姿のまま森の中央に行け、って」
「そうだったのか」
「そうすれば修練の一つが終わったんだ……でももう」
子狐は俯いて呟く。
「それであんな幻覚を見せたのか」
思えばあの時舞ったのは本当に茸の胞子だったのか。爪が引っかかるあんな場所に偶然生えてるなんてことがあるのか。
「違うよ、おいらじゃない!」
確かにこの子狐からは、幻覚の中のあの禍々しさは感じられない。ならば誰が。
「……!おじいちゃんだ!」
「お前の師匠か」
「そうだよ、絶対!おいらが真面目に修練するか、見張っていたんだ」
みるみる子狐が
「修練に失敗した……おじいちゃんに叱られる…」
とべそをかきはじめた。あの虚勢も何処へやらだ。
「私も行って説明してやる」
しかし魔の物を助けてしまってよいのか、と一瞬考えた。(だが元はといえば、自分が吹き飛ばしてしまったのだ。魔のものとはいえ、こんなに小さなものが困っている)

子狐との道中は思っていたより大変だった。なにせ龍は大きく、子狐は小さい。龍が先行し、振り向くと子狐が後ろを急いでいる。追いついてくるまで待ち、また龍が先行して待つ。気を抜くと距離が空いてしまい、
「待てよ!」
と遥か後方から息も絶え絶えに走ってくる。
暫く休んでまた出発し、と繰り返すうちに、龍も子狐も疲れてしまった。進む速度があまりにも異なる。
龍がふと空を見ると、大分日が傾いていた。
「いつまでに帰ればよいのだ」
「夕飯までに帰らなければ、飯抜きなんだ」
「それは厳しいな」
「でも、おじい……師匠は、厳しいだけではないんだ。おいらだって、立派に跡取りにならなければ」
こう見えて、この子狐はなかなか骨があるようだ。
いっそ連れて行ってやりたいが、触れればやはり弾き飛ばしてしまうことになる。
そうだ。
「お前、水は泳げるか」
「な! ……舐めるなよ、そんなの朝飯前だ!」
「ならば」
龍は空高く飛ぶ。雲を呼び、集める。上空は雲に覆われ、あたりは急激に寒くなった。
プラズマの匂いが漂ったと思った瞬間、雷。
雷鳴とともに雨が降る。瞬く間に豪雨となり、森の道がみるみる雨で埋まる。川のようになり、濁流となり、全てを流していく。
森の中心は窪地になっている。こうすれば早く着けるだろう。
子狐は、化ける間もなく流されていく。
「ふわふわに変化するのではないか」
と龍が声をかけると、あわてて変化した。そのまま流されていく。

流された先には池ができていた。池の畔には小さな洞窟があった。流れついたはずの子狐はもういないようだった。
龍は洞窟に向かって声をかける。
「御老体、居られますかな」
予想通り、中から狐が出てきた。大分歳を取っているようで、身体が縮んでいる。
「これはこれは、龍の方。こんな所までいらして、大丈夫なのですかな」
幻覚の中の赤茶色の塊の声と同じである。匂いからもそれを裏付ける。禍々しい気配。
「あなたのお弟子の邪魔をしてしまいましてな」
「これはご丁寧に。全ては弟子の未熟さ故。そもそもあんな開けた道を進んでいれば嫌でも目立ちますのに」
見ると隣で子狐が項垂れている。無事に辿り着いていたようだった。
「貴方様に見つかった時点で、既に不合格だったのですよ」
「ではあの幻術は」
「この弟子に向けてたのですが、貴方様を巻き込んでしまいました」
なるほど、どこまでも壁に触れられないのは幻術の中だったためか。思えばあの中ではどんなに飛んでも疲れることはなかった。だがそれだけではないだろう、と龍は思ったが、黙っていた。なにせ弟子を吹き飛ばしてしまった。意匠返しの意味合いもあったのではないか。
「それにしても見事な幻術でした。龍たる私をも巻き込めるとは。失礼ながら、さぞや高名な狐の方と見受けます。あなたは一体」
「いえいえ、私など。すっかり耄碌しましたので、この子を助手にしたいと考えたのですが、まだまだで」
あれほどの幻術を施しながら耄碌とは、とんだ謙遜である。龍は術に嵌まったことにも気付かなかった。
「お弟子が『おじいちゃん』と仰るので、てっきり殿方かと。もしや九尾の」
老狐は微笑むばかりで答えない。よもや性別まで欺くとは。目の前の姿も果たして真実の姿であるかどうかわからない。
子狐は老狐の脇で睨みつける。中々の気の強さだ。
「どうしたかね」
「なんで……あんな力があるのに」
これ、と窘める老狐を宥め、
「力?」
「あんなにすごい雨が降らせられるのに、なんで今年の夏は雨を降らせなかったんだ」
龍が老狐を見遣ると、僅かに顔を顰めている。
孫は祖母の枠には収まりきらないようだ。ひょっとすると、この孫の言動は老狐の本心を写しているのかもしれない。
「なにかありましたかな」
諦めたように老狐が説明する。
「貴方様に責があるわけでもないのですが。夏に雨が少なかったせいで、我々の活動が少なくなりましてな。夏の祭が取りやめとなったのです。これは祭を殊の外楽しみにしていました故」
(ああ、それで)
「せめて幻術ででも祭を見せてやろうと。お優しいですな」
はっとした顔をして、子狐が祖母を振り返る。
老狐の顰め面がますます深くなる。
「おじいちゃん……」
「師匠と呼びなさい」
龍はふっと微笑み、告げた。
「貴方様のお陰で、あのふわふわにも触ることができましたよ」
(触った感覚まで再現するとは、恐ろしい幻術だった)
「貴方様は偉大な聖獣であるためか、少々軽はずみなところがあるようです。ご自身を過信なさらぬよう、お気をつけあれ」
照れ隠しを兼ねての警告だろう。龍は苦笑した。
「ときに、あの粉はなんでしょうか」
「我らが一族に伝わる幻惑の粉でございます。よい夢をみれましたでしょう」
にい、と笑う顔は、さすが魔のものの王といった風情だった。

龍は空を飛んでいる。
森を見下ろすと、木の根元の叢が揺れている。
あの中にいるのはあの子狐だろうか。
(挫けかけた子狐を再び奮起させるとは、さすがの大妖怪)
どこまでが演技だったか。もしやあの顰めっ面も。なるほど、あの祭も禍々しいわけだ。
龍はまんまと利用されたのだろう。
(今まではあまりにも小さなものに気を配っていなかったな。これからは、気分だけでなく、木の実の出来をみながら雨を降らせるか)

しばらくして、龍はまた飛んで行った。

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