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夜のピアノ

  夜風に吹かれながら、僕は鍵盤を叩く。月光に映える鍵盤は、いつも以上に白く見える。下手くそで内気な僕は、ピアノを人前で披露したことはないし、今後も誰に聴かせたいとも思わない。ただ、今は人の目を気にする必要はない。ここは森の中、世間とは切り離された空間だ。森にピアノを運ぶなんて、気でも狂ったかと思われるかもしれないが、特に理由はない。また、それは金持ちの道楽と言うわけでもない。その証拠に、私は、明日も生計のために出社せねばならない、しがないサラリーマンである。そんなことは忘れ、今はただこの夜の森に耳を傾けるのだ。様々な音が聞こえる、それに合わせて鍵盤を叩く。各鍵盤には自然がやどり、押し込むたびに何かが跳ね返り、夜に放たれる。それらはこの森に溢れ、充満し、やがて溶け込む。異物であったこの音が、いつの間にか、なによりもこの森に馴染んでいる。自然が指揮をし、私が弾いている。いや、これはそんな比喩で表すことのできない関係である。頭の中を空っぽにして、僕はただ音を鳴らす。自然から生まれしこの僕が、自然のために、自然を弾く、そんな一夜の話である。

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