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#05 INTERVIEW  SHIMONHOOD(シモンフッド)オーナー/阿久澤慎吾

やりたいことは全部やってみる。それが未来を変えていくチカラ。


はじめに。
あなたには、たくさんの可能性があることを、知ってるだろうか?人生をかけて1つの世界を追求し続ける挑戦は、とてもカッコいい。けれど今回のお話は、“やりたい”と思ったことは全部に挑戦し続ける、という方の話。東京で12年、編集者としてキャリアを積んでいた阿久澤慎吾という人がいる。彼は2年ほど前に、それを辞めて地元の下仁田でSHIMONHOOD(シモンフッド)という飲食店のオーナーになった。それは一体なぜか? 彼のその想いと、それまでの数々の経験。そして、これからについて。

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阿久澤慎吾さんを尋ねて、下仁田『シモンフッド』へ。
東京都内から車で約2時間の下仁田町。群馬県南西部・甘楽郡。総人口 6,413人、町面積のうち山林が約84%を占める。(※Wikipediaより。)古くから関東と信州を結ぶ街道沿いの宿場町として栄えたという下仁田町。街並みは未だその名残をとどめている。
彼を尋ねて下仁田へ。それは秋の気配が漂い始めた11月中旬のことだった。着くと、道先にはたくさんの下仁田ネギが至る所に並んでいる。どうやらこの場で買えるようだ。のどかで、都内の喧騒を忘れさせてくれる街。自然と歩く足取りもゆっくりになって、心が解きほぐされていくような気持ちになれた。

お店へ。
昨年の9月にオープンしたばかりのこのお店。元は米蔵だったという建物をリノベーションされたものだという。古き建物を上手く使っていて、街にも馴染みつつ、且つ洗練された外観だ。のれんを看板代わりにした、元米蔵をリフォームしたという外観は、和の情緒が漂っていて、とても感じがいい。
ガラスの戸をガラガラと開いて、店内へ。ランチタイムのせいか、中にはお客さんは数組いて、やや忙しそうな様子だ。見ると、カウンター、座敷、テーブル席が数席。どうやら2階もあるらしい。古い外観に見えるけど、中はキレイにリフォームされていた。

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ご挨拶遅れましたが、インタビューをメイン記事にしてるグランドデザインのYOです。今回は、この店のオーナーの阿久澤慎吾さんにインタビュー。
2年ほど前まで、東京で様々な有名雑誌の編集者として活躍していた阿久澤さん。
わたしが出会ったのも、その編集者としての彼だった。
そこから、店をオープンするまでの彼の辿った軌跡、その編集者としての経験を全く無視した(?)今回の決断について聞いてみた。

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約2年ぶりの再会と、阿久澤さんの人柄について。
久々な対面だったことと、カフェのコスチュームの帽子とエプロン姿だったこともあって、一瞬、彼だとわからなかった。すると、向こうからこんにちは、と笑顔で話しかけてくれた。あ!と焦りつつ、ご挨拶。
──ご無沙汰しております。本日はお仕事中にお邪魔してしまい、すみません。どうぞよろしくお願いします。
「お久しぶりです。ご連絡ありがとうございました。こちらこそ、よろしくお願いします。」

ちなみに阿久澤さんの人柄は、というと。
雰囲気がとっても柔らかくて、親しみやすい方だ。コミュニケーション能力高めな上に気配り上手なので、女性だらけの現場でも、全く違和感ない。あと、これは想像だけど、どんなにガードが固そうな人とでも、その独特のパワーでふわ〜っと入り込んで、きっと誰とでも話せちゃう。だからこそ皆から常に好かれてる、魅力的な人だ。

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01/特に本は読んでいなかった学生時代。大学は青学へ。当初は外務省を目指してました(笑)

2002年-2005年(18-22歳)

──早速、学生のころからのお話から、聞かせていただければと思います。幼い頃から編集者を目指していたんですか?
「実を言うと、もともと学生の頃から、特に本が好きだったわけじゃなくて、どちらかと言うとスポーツしてた方。だから、編集なんてやろうなんて、全く思ってなかったんですよ」
──そうなんですね。本を読んでそうなイメージでしたので、すこし意外でした。そういえば、大学はどちらでしたっけ。
「青山学院大学の国際政治経済学部です。高校は富岡(下仁田のお隣)のほうに通っていたんですけど、当時僕は、その中ではまあまあ成績も良くて。実はその頃、外務省にはいりたいな〜なんて思っていました(笑)。
──外務省!目指すスケールが違いますね・・! すごい。
「いえいえ。実際入学してみたら、僕より皆頭いいし、帰国子女もたくさんいるし。『あ、無理じゃん』ってすぐに悟りました(笑)」
──(笑)そうなんですね。
「大学2-3年で周りの皆がゼミを選び始めた頃、将来を考え始めたんです。結局、文系の学部を出ても、なにか技術を得られるわけじゃないから・・学部的に同級生は比較的硬めの仕事に進む人が多かったです。でも皆が選んでるような金融だとか営業職とかは、何となく違う、というのはあって。それで、ちゃんと就活しなかったんですよ。」

就活はちゃんとせずに、興味があった分野でアルバイトしてみた。
──ちゃんと就活しないって言い方、新しいですね(笑)。その後、編集の道へ進んだのは、何かきっかけがあったのですか?
「そうですね。編集に興味を持ったというよりは、当時ハマった雑誌があって。CHOKi CHOKi(チョキチョキ)という雑誌でした。」
参考:https://www.magazine-data.com/magazine/chokichoki.html

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「原宿の読者モデルとかが出ていて、当時はそれが新鮮で、人気でした。好きでよく読んでましたね。」
──懐かしい! メンズ誌だったので読んだことはなかったのですが・・2015年に一度休刊になってしまったけど、いまムックとして復活したようですね。他はどんな雑誌を読んでいたんですか?
「あとは『EYESCREAM』ですね。その頃から好きで。」
──その雑誌は以前、阿久澤さんが編集として働いていたところですよね。では学生の頃から好きだった雑誌をつくっていたということなんですね・・。素敵ですね〜。

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アルバイトをする中で、編集と同時にデザインに興味を持つ。
「雑誌にハマっていたこともあって、大学3年生から2年間、編プロ(編集プロダクション ※ 参考https://yoridokoro.biz/blog/writer-working/writers-business/distinction/)でバイトしていました。
社員数は5-6人くらいの会社で、飛行機会社の機内誌を制作していました。アルバイトだったので、もちろん実務はできなかったんですけど、雑誌というものがこんな感じでできるんだなということが分かりました。そしてその2年で、雑誌という方向と、またデザインについても興味がわいたんです。」


02/WEBデザイン会社に入社するものの、『GYAO!』で編集者をすることに。

2005年-2008年(22-25歳)


──え!デザインですか?!それは初耳でした・・!
「はい、雑誌の制作の流れを編プロで2年見て、なんとなく流れが見えてきた中で、デザインにも興味がでできたんです。そのころはwebデザインのはしりのときで、小さいスクールとかが、都内で少しずつ増えてきていた頃でした。なので、デザインをやってみようと、夜のスクールに半年くらい通ったんです。その流れで、求人募集をしていた制作会社に就職することが出来ました。業務的には、携帯電話の待ち受けやバナーなどを作っていました。」
──デザイナーとして就職されたんですね。それで、どうでしたか?
「1年くらいやって、『あ、デザイン向いてないな』って思いました(笑)」
──(笑)! いや、でも一年目って、一番辛い時期ですしね・・。

デザインの“正解”って?“終わり” って?
「そうですね、きっとそれもあるかもしれないですが、、まずデザインって、“正解”がないじゃないですか。」
──ああ、確かにそう言われると、決まった“正解”はないかも。
「例えばちょっとしたバナー制作についても、フォント(書体)選ぶ、色を選ぶっていう過程があるじゃないですか。そのスタートから既に、なにが正解かわからなかった。そして、そこに“終わり” もないじゃないですか。忙しかったことも辛かったけど、そこが一番辛かったですね。」
──そう言われると、、もしかしたら私も1年目は思っていたかもって気がしてきました笑。今はそこに面白さがあるなって思ってやってたりするんですけどね。
「やってたから言えるんですが、デザインやってる方って、本当に尊敬します(笑)。」

出向という形で、『GYAO!』のWEBの編集者に。
「たまたまその会社が、『GYAO!』(当時USEN運営)に出向していたんです。その頃、動画配信の先駆けで話題になっていた会社でした。
そこで社長と面談の機会があって、デザインじゃなくてWEBの編集をやりたいという相談をしてみました。すると、ちょうどタイミングよく、そちらに行く事ができたんです。」
──へ〜!なんだか、そのタイミングの良さって運にも思えます。それで編集に行けたんですね。
「はい、その流れで、『GYAO!』の音楽チャンネルのWEB編集者に。当時、『GYAO!』は、若い子が集まっていて、仕事っていうよりサークル的な感じで自由なかんじでできたのは面白かったです。やってることも前例がなかったから、どうやるんだ、というかんじで進めていました。アーティストのリリースに左右される感じで、月によって仕事量はばらばらでしたね。デザイナーに発注したり、記事を制作したり。デザインの仕事より、こっちのほうが面白いと感じました。」


03/二玄社に勤務。本格的に編集者を目指す。

2008年-2012年(25-30歳)

「その『GYAO!』での経験もあり、編集者としての下積み、経験をつみたいと強く思うようになっていました。最終的には『CHOKi CHOKi』『EYESCREAM』とか、そういう編集部にいきたいけど、そのためにとりあえずは雑誌編集という世界に入らないと、と思って、二玄社に入社しました。」
──どんな雑誌を担当したんですか?
「『Moto NAVI』、『BICYCLE NAVI』(いまは休刊)をつくる編集部でした。実を言うと、オートバイと自転車にはそんなに興味はなかったんです。でもたまたまオートバイの免許をもっていたこともあったので、勉強する期間だと思って頑張りました。そこで本当に、編集のノウハウを取得することができたと思っています。」

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一番辛かった仕事は、編集長からの試練?

──内容的にはどういう雑誌だったんですか?
「オートバイや自転車の専門的な性能というよりはそれぞれのあるライフスタイルを提案する雑誌ですね。当時自転車がはやってたこともあって、勢いがありました。その中で、たまに、編集部員が出演する取材の記事もあって。」
──え!それは阿久澤さんも出演されたんですか?
「はい(笑)。国道1号線をホンダのモンキーというミニバイクで、日比谷から大阪までいくって企画です。昔カブで横断した浮谷さんという方がいて、それをモチーフに行った記事です。

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記事のモチーフになったという、”浮谷 東次郎著「がむしゃら1500キロ─わが青春の門出」”


「道中は自分で撮影することになっていたんですが、本当に最初の取材だったので、どういう写真をとればいいかわかってなかったんですよ。で、あとになってあれたりないとか出てきちゃって(笑)。デザインで切り抜きにしたりしてごまかしました。いま思うと、ほんとうに辛かった。荷物も背負ってることもあって、横浜あたりでめちゃめちゃ腰とお尻が痛かったし、大阪まで2日かかったんです。あれを思うと何でもできる気がします。

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──2日!それはきついですね・・
「ちなみに、今となってみれば新入社員へのテストのようなものだったのかもしれません。どれくらいやる気があるか、を測る試験。編集長は、それで僕が辞めるって言うと思ってたらしいですね(笑)。」
──過酷すぎる試練でしたね・・・。すごいです。
「20代だからできてたんだろうなという感じで、今やれと言われたら無理です。というかしたくない(笑)そこでは5年勤務して、みっちり編集の仕事というものを学ばせてもらいました。あと、現在の編集長が後輩で、いまでもツーリングがてら、寄ってくれたりして、実は取材もしていただいたんです。そういうつながりは本当に嬉しいし、ありがたいです。」

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04/やりたいことをやる。次は、エンターテイメントのど真ん中へ。

2012年-2014年(30-32歳)

「経験を積んだあとは、やりたいことをやろう!と、思ってました。もともとアイドルが好きだったので、アイドル雑誌をずっとやりたかったんです(笑)。ちょっとしたあてもあり東京ニュース通信社を受けました。その会社から『BLT』というアイドル雑誌が出版されていたこともあって、面接したんです。」
──それで、結果はどうでしたか?
「無事、入社できました。でも配属されたのは『週刊TVガイド』だったっていう・・全く『BLT』には関われなかった(笑)。」
──残念でしたね…。というか週刊誌ってめちゃめちゃ忙しそうですね・・。
「すごいスケジュールでしたね。昼夜完全に逆転してまして。忙しかったです。でも、逆にやりがいはすごくありました。雑誌のなかでやりかたったことの1つとして、エンターテインメントど真ん中みたいなことをやりたい、という気持ちがあったので、とてもいい経験になりました。メジャーな、誰もが知ってる雑誌、ということも、やりがいの1つでもありました。そこで事務所との付き合い方など学ぶことができました。」



05/念願の雑誌 “UPDATE”、“EYESCREAM”。

2014-2015年(32-33歳)

──2014年に、とうとう念願のアイドル雑誌の立ち上げに関われることになったんですよね。おめでとうございます(笑)
「このアイドル雑誌『UPDATE girls』の創刊に立ちあえたのは本当に嬉しかったですね。これはSPACE SHOWERから出していた雑誌でした。
たどると、あるとき『EYESCREAM』で欠員がでたことと、SPACE SHOWERののなかで、アイドル雑誌をたちあげるという話がでてきたことがきっかけでした。(※阿久澤さんはアイドル好きなのです)それでかねてから親交があり当時の編集長だった稲田さんに誘っていただいて、2015年『UPDATE girls』の制作に参加することができたんです。」
──それがすごいです。同じように働いてたとしても、その巡り合わせは、なかなかないですよ。人脈だけじゃない、そこにある種の才能がある気がします。
「嬉しかったですね。雑誌『EYESCREAM』もずっとやりたかったし、アイドル雑誌もやりたかったから、迷わず当時働いていたTVガイド辞めて、転職しました。」

『UPDATE girls』

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憧れだった『EYESCREAM』と念願のアイドル雑誌『UPDATE girls』を交互にこなし、忙しいながらも充実していた阿久澤さん。その約2年後、編集長の稲田さんが退任・独立することに。そのタイミングで一緒にライスプレス株式会社に移り、フードカルチャー誌『RiCE』の創刊に参加することになった。


06/2016年ライスプレス株式会社設立。同年10月フードカルチャー誌『RiCE』を創刊。

2015-2016年(33-34歳)    

──憧れの雑誌にたどり着いたら、今度は独立と雑誌の創刊だったんですね。面白そう!と思いますが、同時にかなり大変そうでもありますね…。たった二人で。加えて、引き継いでる雑誌の仕事もこなしていたという・・
「そうですね、大変でしたね・・稲田さんのコネクションがあってこそ出来た、独立と創刊だったと思います。『RiCE』は季刊誌で3ヶ月に1回出していました。

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──雑誌の立ち上げで大変だったことはなんですか?
「編集以外の仕事もやらなくちゃいけなくなったことですね。例えば販売的なこと・・リリースをだしたり。AMAZONに情報登録したり。書店からの注文を受けたりとかも。」
──途中からWEBの立ち上げも行ってましたね。
「そうなんです。その運用が大変で、WEB始めてからスタッフも増えました。」

すこしだけ、雑誌の話。
さて、ここですこしだけ簡単に雑誌ができるまでの流れを説明。一般的な月刊誌制作の流れとしくみを行程的に言うと、
出版社 → 取次 → 書店という流れになる。
ここでいうと出版社での編集者としての阿久澤さんは、主に下のような仕事内容であった。

1.企画立案(編集会議/企画会議)
2.原稿作成
3.校閲
4.デザイン・組版
5.校正
6.印刷・製本(納品)
※今回、独立したことによって、これに加えて、本が仕上がった後の販売や流通の作業などもしなくてはならなくなった、という大変なことだったのだ。



07/『RiCE』卒業、シモンフッドのオーナーに。

2019年(36歳)9月お店オープン

──店を出そうと思えたきっかけになったのは、『RiCE』“カレー特集” だったというのは本当ですか?
「はい。そのとき取材で感じたのは、カレーって自由だな〜、ということ。それぞれの店のオーナーさんのバックグラウンドに個性があって、料理学校に通ったり、レストランで下積みせずに独学でお店を出してる方がけっこういらっしゃったんです。それらの出会いが、この店を開くきっかけになった一番の理由ですね。」
──そうなんですね!取材すると、ざまざまな店のバックグラウンドについても詳しくなりますもんね。でも、そのオリジナルのレシピは一体どうやってつくったんですか?
「開業まで約半年間、独学で本を読みこんで、試作を重ねました。今のところカレーは4種類くらい。新鮮な野菜は地元のものにしました。」
──とっても美味しかったですよ!意外とボリュームもあって。食後のスイーツもコーヒーも、最高でした。何時間でもいられる、そんなお店ですよね。
「ありがとうございます!」

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──今後、どうなっていきたいとかありますか?
「実は以前、来店してくれた高校生が、僕の店を見て『将来、下仁田でこんなお店をやりたい』と語ってくれたことがあったんです。そういう、モデルケースになれたら嬉しいなと思ったり。」
──そんな風に言われると、やってて良かったって思えますね。素敵なお話です。そうやって、どんどん繋がって、この街が変わってくんでしょうね。きっとこの下仁田に来るたび、素敵な街の変化が次々に起こってそうな、そんないい予感がします。
では長くなってしまいましたが、今日はこの辺で終わりにします。また遊びにきますね!これからも頑張ってください。ありがとうございました。
「こちらこそ、ありがとうございました!」

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まとめ
これまで、メディアの仕事で不特定多数を相手にしてきた阿久澤さん。これからは顔が見える、地元の人を相手にすることになった。彼が東京で培った大きな力は、店を運営する上で役立つことは間違いない。まだ公表はしていないが、彼には下仁田でのまだまだ未来のプランもある、という。
きっとこの街は、これからどんどん変化していく。阿久澤さん自身と、それに影響された人々が、どんどん変えていくのだ。デザイン、編集、そして起業。やりたいことは全部やってみる。それこそが、未来を変えていくチカラになっていく。それは、きっと可能性をも生み出す。

また印象的だったのは、インタビューのなかで、“周りに流されずに就活しなかったことが、人生のなかでのキーポイントだった”と言っていたこと。それはきっと、自分に正直にいること、ごまかさない生き方をすることが、阿久澤さんの力そのものになったのかもしれない。

楽な道を選ばない。諦めない生き方。
人って気がつくと楽な方に流れがちなものだから。それはそれでいいのかもしれないけど、なんだか虚しい。わたしにはこれしか出来ないから。って、なにかを諦めたりしてない?
阿久澤さんのインタビューで思ったことは、したいことがあるなら自分に正直にいよう、ということ。コロナに負けず、己にも負けず。そして彼のように、やりたいこと全部に挑戦し続ける気持ちでいたい。苦しいかもしれないけど、常にそういう姿勢の人は輝いてみえるのだ。そして、そういう人って、ゼロから何だって出来ちゃうんだな。

新たなステージに向かう阿久澤さんを見て、そんな気持ちになれた。そんなインタビューでした。ありがとうございました。

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阿久澤慎吾 PROFILE
青山学院大学 国際政治経済学部 卒業
カレーと珈琲 シモンフッド代表/出身 : 群馬県下仁田/生まれ:1983年 /人生で影響を受けたジャンルや人:① 雑誌CHOKI CHOKI→大学生のときのバイブル。雑誌の世界に興味を持つきっかけになった本。 ② 大学時代の親友Fくん→映画、ファッション、音楽などカルチャー全般に詳しくて、東京には自分の触れてこなかった世界がたくさんあるんだということを教えてくれたひと。/好きな映画:天然コケッコー(この映画を見るたびに故郷に帰りたくなってました)

カレーと珈琲 シモンフッド
HP : https://shimonhood.com/
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Facebook : https://www.facebook.com/shimonhood/

〒370-2601 群馬県甘楽郡下仁田町大字下仁田202



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