『生きる』正解とは?
前回の記事で『絶対的な正義がないと同じように生きる事への絶対的な正解はない』と書いた。
それについて、少し自分自身で深堀りしていきたいと思う。
私は、うつ病患者で1月末に自殺未遂をしてる。
その後、周囲からの『死んじゃダメだよ』という言葉に疑問を持ち、考え、自分なりに考えてみた。
→この記事に書いてある
この記事を書いた後に、じゃあ私なりの生きる正解って何だろうと考えた。
生きる正解とは
人間が生物学的に、種族的に、生きるなら何でもいいし、文明が出来ている時点で正解だと思ってる。だけど、ヒトが現代で『生活し意思を持って生き長らえる』場合、何が正解なのかなって考えた。
きっと一般的には、いい大学を出て良い就職先に就職して結婚して子供を産んで大学まで行かせて、家族円満で、退職した後は趣味に没頭して、家族と交流がある、という形なのだろうか?
果たして、それが本当に私の正解かと言われるとそうではない。
まず、精神病持ってて生きづらいし、大学の第一志望通ってないし、留年してる。次に家族とは縁を切りたいって思ってる。私の人生は、一般的な理想とは絶対に違うし、そうでなければいけないとは思ってない。
結果的に正解だったな楽しかったなって思える人生が私の正解だと思ってる。
ただ、それは誰にも測る事は出来ないし、他人の正解を測る事も出来ない。
自分の人生の正解は自分で決めるしかない。
他人には私の選択を測る事が出来ない
誰も他人の正解は図れない。
だから、私からすれば、自殺未遂をした人に、自殺を選ぶという選択をした人に、『死んじゃダメ』なんていうのは、やはり違うと思うし、貴方が選択に口を出していいものではないと思う。生きることを止めることがその人の正解かもしれない。
もし、代わりに言うとしたら『何があったの?』や『どうして自殺したくなっちゃったの?』だと思う。
その自殺という選択は、その人が今後生きていく事で得られるプラスの要素とマイナスの要素を考えた時にマイナスになる要因の方が多いと考えたからだ。
生きる上で、マイナス要因なんて少ない方が良いに決まっている。
例えば、その日良い事が立て続けに起きても、1つの悪い事で気分が台無しになったり、落ち込んでしまったりする。このものさしはヒトによって違う。
ただ、『違いがある』という事を分かってない人や理解していない人たちもいる。『違いがある』と分かっていても、他人の選択に介入してくる人もいる。介入するなら、ある程度までフォローするべきだと思う。『死んじゃダメ』と言うだけは、違うのではと私は思う。
生きる正解は自分が決める
選択を他人には測れないから、正解は自分が、特に死ぬ時の自分が、決めるんだと思う。死ぬ時に、この人生で正解だったと思えたら、正解なんだと思う。今生きてきて、これなら正解だな、と思えたら正解にしていいのだと思う。
私の今のところの生きる正解は、
『好きな人の隣で美味しいものを食べて、綺麗なものを見て聞くこと』だ。
これが私の生きる糧でもある。
貴方の、正解は何だろう?何のために生きたい?
きっとそれが正解になるのかもしれない。
『絶対的な正義がないと同じように生きる事への絶対的な正解はない』
貴方は貴方の正解のために生きればいいし、私は私の正解のために生きる。
その選択にいくら心配していても、他人が軽率に口だけを出していいものではない。