「隠れた名作」という言葉を考える。それにしても、僕たちの「死」はネタバレではないのか?

「隠れた名作」と称される作品のほとんどが、「ただの名作」である。
「ただの名作」というのは、「しょうもない名作」という意味ではない。「名作」である以上、しょうもないわけがない。
だから、「退屈な名作」というのは表現に矛盾がある。
なぜわざわざ「隠れた」と付けるのか。独善的な人間が考えた表現なのだろう。その人の視点から見れば、隠れたように見えたのか。「自分が無知だった」と思わずに、対象の方が身を隠していた(目立たなかった)と言うところが、面白い。つまり、流行っていない、と言いたいのかも知れない。
「隠れた名作」という表現から、それだけのことがわかる。

この「隠れた名作」という表現の矛盾は、「名作なら隠れられるわけがない」という根本的なところにあるだろう。実際、本当に隠れているものは名作ではなく、ただの駄作だ。駄作だから、面白い作品に隠れているわけで、これは「B級映画」などがそうだろう。僕が適当に詩を書いても、それは名作ではない。
ただ、「駄作が好きだ」という人もいるので、これはこれで文化を形成している。
駄作を面白いと思うのも感性だし、自由だ。製作費やスポンサの規模が小さければ、どうしたって下手な作品になる。それを、あえて面白いと捉える。そういう見方が流行り、今や「駄作風」に作るのも1つのジャンルとなっている。
この手の物には、僕は全く興味を持てないが。

時代が進めば進むほど、名作が取り残されていく傾向は確かにある。
次々にヒット作を打ち立てるために、「それっぽい物」が大量に作られる。実際、もう誰も何も作らなくても良いのでは?と思うほどに各分野の名作が豊富だが、それでは金にならない。
だから、次々に「こういうものがありますよ」とメディアが釣り糸を垂らす。それが流行っているのだ、と錯覚させるために、あらゆる広告、宣伝が投入される。多くの人はそれに飛びつくから、消費者の近辺には流行り物ばかりが集まってしまう。そんな動機で大量にインプットをしていくと、自分が同じようなものばかりに囲まれていることに気づく。
そういう現象は、ほぼ同時に複数のコミュニティで起こるから、メディアはいち早くそれに対応する。
「もう飽きましたよ。お腹が好きましたよ」という飽和状態になるタイミングで、「これが本物ですよ」「今、流行っている作品は、この作品(人)の影響を受けているのですよ」と、メディアはまた「隠れた名作」を紹介し始めるのだ。

表層の文化に影響を受けて育った多くの人々は、これらの作品に触れて「過去にこういう名作があったのか」と知り、知識や感性がアップデートされる。
人は、ある文化が過渡期を迎えるタイミングで、別の何かをインプットすると、必ずカルチャショックを受ける。これが価値観の大きな転換点になり、「隠れた名作」を踏襲した「流行」が、新しく始まることになる。
これらのムーブメントを作っているのは、SNSを含めたメディアである。
これは懐古主義的なムーブメントだと思われるが、実際には、そうも言い切れない。
「現在で流行っているもの」は、常に、「過去あった新しさ」を含むものだ。「新しい」ということの意味が、「かつてあった新しさを合体させること」とほぼ同義になっている。
だから、物事を広く知っている人からすれば、それが何の影響を受けているかがわかるし、新しいよりも懐かしい気持ちになる。

始めから流行の影響を受けない人は、「売れているか、流行っているか」という指標で作品を判断しない。
これは、僕個人の感覚かも知れないが、自分にとってより「主観的」な感動を探し求めていくと、いつしかそれが「普遍的な感動」とシンクロしていくことに気づく。
自分が心の底から感動した作品を挙げていけば、それらが全て「名作」と呼ばれる作品であることに気づくのだ。
中には、何十年、何百年と語り継がれているものがあり、それに感動した人口は「たかが一時代の流行」とは、比にならないほど多いわけだ。

例えば、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」がトレンドだった時代を、僕は知らない。
ベートーヴェンの「大公」が厳密にいつ流行っていたかと聞かれれば、全くわからない。2人ともどの時代を生きていたかは知っているが、リアルな肌感としては全くわからない。
それなのに、この2つの作品について僕はよく知っている。なぜだろう?

こういった経年劣化しない名作はどの時代になっても、図書館にも本屋さんにもCDショップにも当たり前に置いてある。それには当たり前すぎて、誰も見向きをしない。それらは「古典群」となり「古いものは面白くない」と切り捨てられている。若者が「老人は等しく退屈だ」と思う感覚と、同じような現象だろう。
しかし、その作品群は、別に僕たちから隠れているわけではない。
流行にならなくても、誰一人として触れるものがいなくなっても、空に存在する星々のように、遠い未来にまで光を届けるだろう。

例えば、プログラマの世界では、たった一人の天才の仕事に一万人が束になっても敵わない。たった一人の天才が一万人分の仕事をするが、一万人が集まっても、天才一人の仕事を肩代わりすることはできないのだ。
天才の近辺にいるものは、その天才と触れることによって、自分もすごい人物になったように錯覚することができる。
その大いなる錯覚、思い込みによって、

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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