その人の何を見て、人付き合いをするのか。

何かの拍子に家族構成や、これまでの経緯などを話さなければならない時がある。
別に強制というわけではないのだが、こちらも隠しているわけではないし、「何事もなかったかのように」嘘をつくのもおかしい。
家族構成とか、今に至る経緯とか、それくらいのことは社会生活の中で、話す機会が訪れることがあるだろう。

そうすると、僕のような育ちの人間の話というのは、決まって「お察し」という雰囲気になる。
でも、非常にありがたいことに、これまで大学生活以降に関わってきた人たちは、そういう時に、余計なリアクションをしないような「正しい品性」を持っている人が多かった。相手に余計なことを感じさせないように、涼しい顔をしていられる技術を持った人たちだ。

ただ、中には、僕のような人物に近寄ってくる人もいる。
何が面白いのかわからないが、僕の生い立ちや生き様みたいなものに影響される人もいる。これは、僕の側から見れば少し注意が必要だ。
僕を見て学ぶことがあったり、面白いと思うのは相手の自由なのだが、例えば、相手が僕よりもかなり目上の人の場合、「この子は苦労をしているから凄い」というような印象を持たれてしまうことが多い。職員の方にもそういう人がいて、「先生はそんな環境を生きてきて、今ここにいるのだから凄い人だ」みたいなことを平気で仰る。
あなたはあなたの苦労があったでしょう、と思うわけで、そんなことは比べられるものではない。その人がしんどいと思えば、それは誰かのしんどいと、同じことなのだ。

これは自分の話とは違うかもしれないが、社会的な弱者(その定義は置いておいて)に対して何かを施す場合、「自分が可哀想な人間だから優しくしているのか」と思わせてしまうと、どうも失敗な気がする。
「可哀想な人」という情報が無ければ、優しくされないのか?という危うさがある。
僕は、人から見れば典型的な「可哀想な人」には見えないと思うし、むしろ苦境を乗り越えてきたことで、「凄い人だ」みたいなイメージを植え付けやすい。
それも同じ理屈で、僕の周りの人の中には、僕が「そういう人間」だから付き合いをしている人もいると思う。
だから、人に気を使わせないように、自分から自分の話をすることはほとんど無い。

もちろん、僕という人間には色々な過去の情報が含まれているし、それを取り除いて僕を見ることは、難しい。
たぶん、気が弱い人は「あなたはワタシが可哀想だから、

ここから先は

1,054字
10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?