経験をしろ、外の世界を見ろ、と言いたがるバカさ。
こういう偉そうなことを言う人を見ると、「あなたは世界を経験しているんですね」と感じる。
また、世界って、わざわざ経験しようとしなければ見えてこないモノなのか、経験とは何か、と考えさせられる。
世界とはまさしく「どこでも」であり、「どこか」ではない。四畳半の部屋の中でも、それは世界の一部だろう。
旅に出るのも良いし、何かを探す気持ちは良いことだ。
しかし、若者は「自分探し」をするらしいが、それは単なる「気分転換」の間違いではないか?
たかだか気分転換のために、わざわざ「世界を見ろ」とか、「人とは違う経験をしろ」、と言っている人は不思議な感性だ。
誰かにそういう発言をしたくなる人は、どうぞもっと「世界」というものを教えてあげてほしい。まるで「外に出ないことは悪いこと、経験を積まない弱者」とでも言うように、知った顔で接近してくる。
そのわりには、もう少し気の利いた提案は無いものか。
僕もわけのわからない人たちに、そのようなことを何度か言われたことがある。
世界を知っているわりには、切羽詰まった形相で迫ってくる。本当に世界を知っている人なら、もっと大らかな態度になるのではないか、と個人的には感じている。
友達を作れとか、厳しい環境に身を置けとか、チャレンジしてみろ、と言うわりには、僕でも知っているような常識を知らなかったり、本人たちも路頭に迷っているようだ。
人は、誰かに何かを言いたい。上に立っているつもりになって、承認欲求を満たしたいのか。
人は、幾つものことを同時に経験することはできない。身体が一つしか無いから、一つの場所に行けば、それ以外の場所には居ないことになる。その事実をどう考えているのか。
当たり前のことだが、あなたが何かをしている時、他の人は別のことをしているはずだ。つまり、誰もがそれぞれに世界を経験していて、得るものと得られないものがあるということ。
僕は、あまり外に出かけていくことはないが、かといって外で活発に活動をする人たちと比べて、貧しい世界にいると考えたことは一度も無い。
友達と遊ぶことも少ないし、旅行にもほとんど行かないし、ゴルフもやらないし、カラオケにも自分から行くことは無い。
外食もほとんどしないし、遊園地にも行かないし、服を買いに行ったり、意味も無く都会を歩き回ったりもしない。なんなら、本だって買いに行かない。
今では、寺にも神社にも行かない。観光もしない。仕事に行って帰ってくる、ということを繰り返しやっているだけだ。学校にいても、ほとんど動くことは無いのだ。
そんな僕を見て、人は「この人は何が楽しいんだろう」と思うことだろう。そういう人の論理で言えば、僕は世界というものをほとんど知らないのではないか。
たまに気になる作品や物があれば、博物館や美術館に行く。それくらいしか、活動らしい活動をしていないと思う。
しかし、上記のことを全て網羅している人でも、僕と同じ経験はできない。僕の経験、生活に唯一無二の価値がある、と言っているのではない。単純に、別の経験をしているだけで、なぜ誰かに説教をしたり、誰かの経験を貧しいものだとでも言うような態度をするのかが不思議だ。
確かに、イギリスやドイツ、フランス、日本、好きな場所へ行けば楽しい。そんな時、確かに最高だと思う。そこでしか得られないものもあるだろう。
でも、かと言っていつもの何の変哲も無い日々が、それらと比べて劣っているとは全く思わない。それはそれで、そこでしか得られない教訓がたくさんある。
経験をして「何かを得る」ということを大切にしているのだと思うが、何を得るかはその人次第であって、同じ経験をしたからと言って同じことが得られるわけではない。
例えば、同じ本を読んだり、同じ映画を観ても、感想は全く違う。人が何か作品に触れる時、頭の中でイメージしながら鑑賞すると思うが、そもそもそのイメージの鮮明さも、展開の仕方も全然違うはずだ。自分から貪欲に何かを取りに行こうとしなければ、経験なんて何の意味も無い。見るだけ時間の無駄、行くだけ時間の無駄である。
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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