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老人に対して、「かわいい」と言っている人を見ると、妙な気分になる。

子供を見て「かわいいー」と言う気持ちもわからないが、老人に「かわいい」と言える人もすごいなと思う。

僕は別に老人が好きなわけではない。どちらかと言えば、若者の方に好感を抱く。優しいし、柔軟だし、マナーがなっているように思う。
皆が皆というわけではないが、長年生きていると「自分たちは長い間頑張ってきたのだから、もう好きにしていいんだ」みたいにハメを外す老人がいる。馬鹿だと思う。このタイプの人をはっきりと嫌いだと言える。
若者は時代と共に、どんどん優しくなっているように感じる。やはり、高度成長期を経験せず、圧倒的に豊かな社会に生まれたからだろう。優しくなるに充分な土壌を持って育つ若者が多い。

ただ、馬鹿な老人もいるとは言え、常識や慣習を全て破壊してしまえば良い、とは思わない。そういう意味では、僕は意外にも常識人だ。
人は年齢では決まらないし、年上だからといって偉いとも思わないから、老人だからと言って尊敬することはないけど、やはりそれなりに敬うべきだと思う。

これは当たり前のことだが、社会では歳上に敬語を使う。
敬語なんて必要が無い、馬鹿な大人には常識を適応する必要は無い、と言う人もいる。その気持ちは非常にわかるし、何も歳上を立てようなんて気は無い。老人は静かに消えていくのが、一番美しいだろう。
ただ、自分より目上の人には敬語を使う、立てるポーズをする、というのは何百年も続いている慣習だから、わざわざこれを破壊する方が波風が立つし、余計な争いを生むことになる。だから、これを厳格に守った方が良い、と僕は思っている。それだけのことだ。
高齢者が社会からいなくなれば、その倫理観も自然に変化していくことだろう。

「創造と破壊」という概念は素晴らしいものだし、人間が関わる何もかもを発展させてきたが、僕たち凡人には難しい。
何もかもを破壊していけばいい、という思想を持つ人が増えたが、破壊の後に品格を保つことができる人間が、あまりにも少なすぎると僕は感じる。人間はまだそんなに賢くは無い。
仮に、常識を破壊した後、そのルール無用の社会の中で、僕たちは自分の欲求や他者を思いやる気持ちを、本当に失わずにいられるだろうか?
馬鹿げている常識、良識もたくさんあるが、これに代わるだけの精神を大衆は持ち合わせていない。まだこれがある方がマシだということだ。もしそれらを排除すれば、弱肉強食の世界になる。資本主義などでは済まないような恐ろしさだ。これは間違いない。

話が逸れているかも知れないが、老人に対して「かわいい」と形容する感覚、そう思える感覚は優しいと思うが、それは違うだろうと毎度思う。
大学の文化祭などには、一般の人が聞きに来る講義や講演会があるが、たくさんの人が学内に入ってくる。もちろん、老人もたくさんいる。
文化祭において工学部では、ナローの鉄道を走らせて子供を乗せるような出し物や、食べ物、簡単な電子工作のセミナ、一般向けの工学の講義などがある。もちろん、生徒が主導して、僕たち職員はサポートをするだけだ。安全面の確認だったり、使用する道具などの配分や予算を考えたりする。客への対応も生徒たちがやるので、子供や親、若者、老人と関わっている姿を適当に眺めている。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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