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どんな言葉よりも、「まずやる」という行為に勝るものは無い。

人によっては、やりたいことや興味のあることが、たくさんあるだろう。また、人によっては実際に行動に移して、何度も挫折をしたり、ちょっとした喜びを感じたり、エキサイティングな日常を送っているはずだ。

僕もやりたいと思ったことは、まず実行に移す方だ。やりたいと思ったことで、行動に移さないことは無い。極端な話、今歩きたいと思ったら、雨の中でも歩きに行く。もちろん、人の目は気にならない。これはそうするのが正しいという話ではない。そこで我慢をしてワクワクを近い未来のために貯金する、という方法もありだ。

ある日唐突に「ピアノを弾ける気がする」と思い、考えることも無くすぐに電子ピアノを買った。もちろん、当時はローンである。
普通なら、大してお金も無いのに、ローンを組んでまで買おうとは思わないだろう。しかも、ピアノなんていかにも難しそうで、すぐに諦めてしまうかも知れない。結果的に、僕のこの時の直感は非常に正しかった、と今は思う。ピアノを弾くことは、割と向いているタイプだということがわかった。まさしく、やってみなければ自分の傾向自体もわからなかっただろう。

でも、僕はそういうことをあまり考えないで、安易に手を出してしまう。一般的な社会人の感覚で言うと、無謀だし少々愚かに感じるシーンもあると思う。当時の僕はただの貧しい学生だったから。
でも、そういう時に僕が考えるのは「弾けたら楽しいだろうな」ということばかりで、「弾けないのではないか」とは全く思わない。なぜかはわからないが、「できる」というビジョンしか無いのだ。(もちろん、やってみると全然ダメだったということも何度もある)

楽譜をすらすら読むことはできないので、楽譜に一つ一つ音を書き込みながら、まずは右手だけを覚えるという風にして覚えていった。(独学のせいで、楽譜を読む癖がつかなかった。これは良くなかった。)
右手が弾けるようになったら、左手を覚えた。右手に比べ左手は和音(一度に二つ以上の音を同時に鳴らす)を弾くことが多いので、難しかった。指の神経も発達していないから、複数のキーを全くの同時に弾く、ということが難しい。その上、指の神経を発達させるための練習曲(退屈)も全くやらなかったので、速い指使いの曲はできない。
それでも、運指を全て覚えて初めて弾けるようになった曲は、ショパンの有名なノクターンだった。人に聴かせられるようなレベルではないが、自分で弾く分には十分楽しかった。別に演奏家になるわけでもないから、あまり細かいことは気にしなかった。

でも、独学だとやはり遠回りになることはある。ペダルで誤魔化しながらなんとなくで弾けるような曲は良いが、バロック派、古典派と呼ばれる時代の音楽や、リストのような技巧的なものになると限界を感じた。いや、限界というよりも、「ただ楽しいだけの練習」では限界だなと感じたわけだ。
それまでのやり方では弾けない曲というのが、たくさん存在する。非効率な独学では、やはり習っている人たちのように着実にステップアップしていけない。
その差は大きくて、次第にピアノから遠ざかるようになった。今でもピアノを弾くけど、指の神経を鍛えるためだけに退屈な音楽を練習する気になれない。もちろん、弾きたい曲の弾けない部分を取り出して、そこをゆっくり繰り返すことで最終的には弾けるようになるはずだ。
でも、もっと若い時の僕は「結局のところ自分は貧乏で、うまい具合に独学することもできないな」と考えて、ほぼ諦めムードだった。
それくらい、自分の育った環境などに「負の感情」を抱いていたのだと思う。要は、疲れてしまったのだ。若かったということだろう。

ピアノをやっているときに、唐突に「ヴァイオリンをやりたい」とも思った。やってできないことは無いだろうと思い、またすぐに安価な物を買った。しかし、これは全く続かなかった。
あの楽器は、ピアノのように押せば鳴るという楽器ではない。ただ鳴らすだけでも、難しい。しかも、かなり安価な物だったので、どう弾くことが正しいかを掴むこともできなかったし、正しい体の使い方、フォームがよくわからなかったので、すぐ諦めてしまった。「弾きたい」という思いが弱かったのだろう。これは、始めの「やりたい」という感情を信用してしまったというか、読み間違えたということ。
自分が自分を騙すのだ。こういう失敗もたくさんある。

少なくとも、ただイメージしているよりも実際にやってみた方が学ぶことは多い。
というよりも、実際に「何か」を身に付けるためには、やる以外に方法が無い。頭の中で思っているだけの状態は、リアルではないのだ。
もし何も行動に移さなければ、まさか僕のようなお下劣な環境で育った人間が、意外とピアノに向いているなんて思わなかったし、「ヴァイオリンは一生やらなくて良い」と知ることも無かっただろう。
何もかも、やって無駄になることはない。例え無駄に思えることでも、「想像よりも面白くなかった」「もうやらなくてもよい」ということが発見できるからだ。
自分の傾向、向き不向き、未知の自分が見えてくる。さらには、自分がマッチしている分野、世界が見えてくる。

まずやってみる。実践せずに身に付く知識など、無い。極端な言い方をしているが、これは真理だと思う。
僕の勝手な考え方だけど、「何かをやる」からと言って、目標を達成したりする必要は全く無いと思う。
人は何かを始めたい時に「自分はあそこまで行けるだろうか」と想定してしまう。上達できるだろうか、自分に向いているだろうか、と。
しかし、そもそも「〇〇をやりたい」とか「〇〇が欲しい」と思っている時、すでにワクワクできている。なんなら、この初期のワクワクは実際に何かをやったり、手に入れた時にはかなり薄まってしまう。
折れ線グラフで言えば、何かに着手する前段階のワクワクは「上昇」である。そして、何かを始める直前、手に入れる直前は「急激に上昇」する。その後、実際に何かを始めて少しの間、手に入れて少しの間は「緩やかに上昇」する。やがて飽和状態になり、あとは「下降」していくだけだ。

つまり、実際に何かをしなくても「楽しめる」段階は、皆に等しくあると言えるだろう。楽しいにも色々あるけど、これくらいの楽しさなら何もしなくてもいいわけだ。なればこそ、そもそも何かしらの行動や、何かが欲しいというのは、必ずしも「楽しむため」にあるわけではない、と僕は思う。
ただ、何度も言うが、少なくともインスタントなワクワクなら、何も始めなくても得ることができるということだ。
とは言え、「自分がワクワクできること」を探す行為は必要になるので、何もしないでボーッとしていたら、それさえも訪れない。もちろん、人は自分の中に未知の部分を持っているものだから、これはさほど難しいことではないと思う。(始めのうちは)
では、何かを始めたり、手に入れたりすることの本質が「楽しむ」ことではないとしたら、一体何のために行動するの?と思ってしまうだろう。しかし、それは短絡的な思考だ。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

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