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スキゾイド少年の生活 番外編【川流れをし、帰宅するまでの経緯2】
ここまで読んでいただいた人には申し訳ないが、「つきのまどの川流れ」は小学校2年生の頃ではなく、3年生の頃だ。入力を間違っていたようだ。
「お前、一年サバ読んでんじゃねえか。3年生ならそれくらいできるだろ」と思われる方もいるかも知れない。その通りである。言い訳もできない。
では、続きをどうぞ。
前回、ホームセンターの閉店までを書いた。目的は自転車を盗難することだ。(不法投棄味がある物に限る)
その後、ホームセンターの施設内にはまだ従業員が残っていたが、気にせず駐輪場へ向かった。駐車場に人は出ていなかったし、流石に僕も疲れがあるので、思考力が低下していたのだと思う。何しろ、小学生なのだ。
広い駐車場だし、もう暗い。まぁ大丈夫だろう、と考えた。
小さな駐輪場で自転車を物色した。自転車は3台ほどあった。きれいな自転車が2台に対して、端っこに追いやられている自転車が1台。
綺麗なものは、従業員のものだと想像した。しかし、この追いやられているものは、不法に置かれているだけではないか。そういう雰囲気だ。
小さな折りたたみ自転車で、あまり綺麗ではなかったし、塗装の剥げ具合もずっと野ざらしにされているような感じだった。しかも、鍵がどこにもかかっていない。ケーブルタイプの鍵がハンドルのところに引っ掛けてあるだけだ。
「もうこれしかない」と思い、その自転車を持ち出すことにした。もし従業員の誰かが乗っている物なら、決して許されないことだ。その可能性は低い気がするが、こういう反社会的な行為はずっと頭に残る。
いろいろな犯罪があり、中には他者から見ても「しょうがないよ」と思えるケースもあるだろう。でも、できるなら絶対にしない方が良いに決まっている。
復讐も、正しく見える暴力も、気持ちはわかる。その瞬間は、憤りが治らないだろう。「自分にもっと力があれば...」と嘆く気持ちもわかるが、やってしまったら次はそれらの記憶と、ずっと向き合って生きて行かなければならないのだ。
だから、悲しくても、虚しくても、何もせず徒労に終わる人たちの方が、ずっと良いと思う。少なくとも、その方がずっと綺麗だ。
苦労をした人は、その傷を何度も触ったり、瘡蓋を剥がしたり、さらなる感情を塗り重ねてしまう。
次第に、元あった傷さえどこにあったのか、わからなくなる。そうして、治療が困難になっていく。しかし、傷は傷として、痛みとしてあなたに訴えかけるだろう。それに意味なんてない。だから、死ぬまでに「ただ、そっと忘れられれば良い」と僕は思う。
無駄なことなど何一つとして無いけれど、無駄になってしまうことはある。大事なのは、あなたがあなたの真ん中で幸福を感じられる時間だ。些細なそれを見つけて、自分を許すことができる状態だ。
傷を癒すことは目的ではない。
逆を言えば、別に傷はあったっていいし、悲しくたっていいのではないか。
話が逸れた。
ここで問題なのが、「僕はほとんど自転車には乗ったことがない」ということだ。言わずもがなだが、自転車など買ってもらえるわけもない。
正直、こういう移動に使う道具は、手に入れたかった。他の子供たちを見ていて、「羨ましかった」と言える感情を持っていたと思う。
何せ、これがあれば図書館へ行くのも楽だ。隠す場所さえ確保すれば、学校へ行くことさえ楽だろう。学校が好きというわけではない。家に居たところで退屈すぎるし、何せ学校には給食がある。親も、僕が学校に行くのは咎めなかった。理由としては色々あるが、まぁ「そういう親」なのだ。(動画でも語ったが、給食代金はちゃんと納めていた)
ところで、小さな自転車とはいえ、ほとんど乗ったことがないものを駐車場で試すのは危ない。
従業員の姿は見えなかったけど、そんなことをしているうちに誰かが出てくるかもしれない。だから、とにかくこの敷地から自転車を出そうと思った。
想像していただければわかると思うが、ホームセンターには柵と車が入るゲートがいくつかある。
入る時は当たり前のように柵を乗り越えたけど、なぜゲートを乗り越えなかったのか、不思議だった。ゲートの方が、明らかに低いのに。
そこで、帰りは自転車を担いてゲートを越えられないか、と考えた。できるかできないかはわからないが、とにかくゲートに向かっていくしかない。
すると、ちょうど人が通れるくらいゲートが開いているのがわかった。入る時も、ここから入ればよかったのに...真正面から入ることに、気が引けたのかもしれない。まるで、強盗の心理である。
周辺は都道があるだけで、人が歩いているということはない。車は多く走っているけど、誰も僕のことなんて気にしないだろう。
問題は、この自転車を僕が運転できるかどうかだ。
実際、僕は子供の用の自転車に跨ったことはあるが、ちゃんと漕いでどこかへ行ったことはない。ただ、足で地面を蹴って、少し進んだことがあるくらいだ。
ただ、その辺りの運動神経には自信があった。跨って足を地面から離すことができるということは、バランスが取れるということ。勢いがつくことを恐れないということ。自転車や一輪車は、ある一定以上の速度出ている方が安定する。子供はそこのところを理解していないから、上達が遅いのだ。僕はもともと、何をするにも「怖い」「怪我をするかも」という感覚が薄いので、始めからけっこうな勢いで漕ぐことができた。
人がほとんどいない広い歩道だったのもあって、まっすぐ走る良い練習になった。自転車自体も小さくて軽いから、扱いも楽だった。
その難問をほとんどクリアしたことで、次はどうやって帰るかという問題があった。
人に道を聞くことが僕にはできないので、まずコンビニに行こうと考えた。コンビニにはきっと地図があるはずだ。それさえあればなんとかなる。そこは確信していた。
どこにコンビニがあるかはわからなかったけど、結果的にただ道なりに走っていればコンビニが見つかった。幹線道路には必ずコンビニがある。灯りがついていて、トイレがあって、温かいものや冷えたもの、少しの日用品が売っていたりする。すごい世の中である。
セブンイレブンに入り、マップルを手に自分の位置を確認。
マップルも常に最新版が発売され続けているので、コンビニなどはほとんど正確に載っている。
そこで、今自分がいる場所がやはり「檜原村」だということがわかった。そうなると、「あきる野市」「八王子市」辺りを横断して帰ることになる。地図上で見れば、大した距離には思えないが、実際にはけっこうある。30キロくらいあるか。
おそらくだが、車なら1時間前後。しかし、これが自転車となると「3、4時間」くらいかと簡単に想定していた。
ところが、これがあまりに陳腐な想像だったことを知る。やはり、子供なのだ。
例えば、下り坂なら乗っているだけで良い。
ただ、下るということは、また登るということだ。この登りが本当にきつい。というか、傾斜によっては自転車では登れない。特に、あんな折り畳み自転車のような小さい物では、いくら漕げども進まないのだ。(結果的に、子供には最適な自転車だったわけだが)
結局、自転車を押して登り、乗って下る。そんなことを繰り返していると、絶望的な気持ちになってくる。一歩でも歩いていれば、目的地へは近づいている。それは、厳然たる物理世界の事実である。でも、一体何時間かかるのか。このままだと、5時間、もしかすると6時間かかるかも知れない。
それを意識すると、「そもそもなぜ帰ろうとしているのか」「帰った先に、何があるのか」という問答が生まれてくる。ずっとそれを考えながら歩いたり、漕いだりしていた。他のことを考えているから思考が分散されて、気づくと自転車の運転は上達している。
上達というのは、いかにそれを自然に行うか、いかに脳と実際の動きを連動させるかにかかっている。今やっていることを忘れるくらいに思考を分散させる。一つのことに集中したって、ろくな成果は得られない。個人的な持論だけど。
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