自分には関係が無いのに、どうして、誰かが抱えている問題について、考えなくてはならないのか。

前回まで、少しだけ性別についての話をした。
僕のような素人が、性別の問題に分け入っていくなど、言語道断だとは思っている。
その問題は、たぶん僕の「外」で起きている問題で、僕はそれについて考えることなく、思い悩むことなく、一生を過ごせる立場にいるだろう。だから、そういった問題を抱えている人たちの気持ちは、僕にはわからない。
世界中のあらゆる人も、僕のこの感覚と同じだと思う。それに悩んでいない人にとっては、そんなものは無いも同然なのだ。
これが、「無知」の怖さである。

という前提は、全ての問題において同じだ。
どのような問題も、その渦中にいない人にとっては、ほとんど「無い」も同じで、だからこそ、それぞれの間に分断が生まれている。
無関心や無知は「悪」というよりも、どうしても体感としてわからないので、気づくきっかけが無い。自分から積極的に哲学をしよう、という人でもなければ、理解しろ、知れと言われても、困るだろう。

ただ、だからと言って、「何も考えなくて良い」というのは違う。
確かに、性別の問題などは、なかなか自分の生活には関わりが無い。トイレも風呂も悩まないし、初対面のシーンや、関係を作っていこうとするシーンでも、自分の性別を意識することは無い。

虐待の問題もそうだ。
これを受けている人に、ほとんど会うことが無いし、ましてや、親から暴力を受けていたという人も、一般と比較すれば少ないと言える。
だから、「当たり前に、親がサポートしてくれる人生に、感謝をしろ」と言って、伝わるわけがない。雨の恵みに感謝しろ、と言われても、「はい?」という感じだろう。それと同じことだ。

しかし、いじめの問題となると、どうだろう。
これは、学校に行けば、一度くらいは見たことがある、されたことがある、したことがある人の数は、先にあげた問題よりも多いのではないか。
少なくとも、「いじめ」に関連した人と知り合いとか、話を聞いたことがあるとか、それくらいの経験ならあるのではないか。
他の社会問題に比べて、ずっと距離が近い。
その当事者ではなくても、自分の生きている生活圏に重なる問題だろう。

あらゆるハラスメントに関してもそうだが、一度は経験があるはずだ。大層なものではなくても、何かしらの嫌がらせにあった経験はある。
会社の上司なのか、クラブの先輩なのかに、立場を利用して嫌なことを言われたり、されたりする。男性の数が多い集まりで、

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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