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今更、ウィル・スミスについてはどうでもいいが

今更だが、むしろそれを機に書いておく。(天邪鬼)

人をあんな場所で殴る成人男性は、「ちょっと感覚がズレているな」とは思う。芸能人としては、さすがにちょっとまずかったか。俳優に社会性を求める方が、おかしいと言えばおかしい気もする。
とはいえ、彼はもうすでに世界中から然るべき非難を受けているわけで、失うものもあっただろうし、話としてはもう終わっているのではないか。
個人のある行為が影響し、事態が悪くなったり良くなったりする。その結果、失うものや得るものがある。全ては、ただそれだけのことだ。

まぁそういう原則の話ばかりしているとお話にならないので、色々と調べてみると、この奥様も非常に「独特」な人であることがわかった。言うなれば、あのような差別的発言を受けたからと言って、完全に擁護されるような立場でも無いようだ。「あの妻もおかしいからな。」という意見も多い。
ただ、事が起きた時にそれぞれの具体的な要素や動機ついて言及し出すと、話はどんどんややこしくなる。もっとシンプルで良いのではないか。だから、法律がある、(もちろん、これは完全なものではない)
つまり、何か問題が起きた時は「現象」だけを観察すれば良い。よほどのことがなければ「起きた事実」だけを見ていれば良いのだ。

そう考えると、そもそも世界で放送されているような大きな祭典で、まずあのような差別的な発言をする人間の感覚は、「相当ズレている」と言える。
歴史的に見て、これほど「差別」に対する機運が高い時代は無いのだ。各先進国はこぞって「いかに差別を無くすか」を競争している。これは火を見るより明らかで、誰が見てもそういう社会なのだ。そういう意味では、社会は進歩していると僕は考えている。
だからこそ、そういう発言を公の場で笑いながらできる人間の方がまず非難されそうなものだ。
しかし、意外にも、この祭典ではこういう「ユーモア」が常習化していて、「誰もが冗談だとわかっているので、殴るなんて...」という意見が多かった。
だから、国際社会ではスミス氏の方がおかしい、という世論に偏っているようだ。
これは、「暴力を無くすよりも、差別を無くす方が簡単である」という教訓なのか?もちろん、違う。暴力も差別も、決してなくならない。
問題は、立場がある大の大人が、「安全側に立つ」思考ができないというところにあると思う。
「決して無くならないものを無くなったかのように見せる」ことが大切だ。僕は常日頃、そのように考えている。

そもそも、いじめ、虐待、あらゆる事件は、「始めに誰かが引き金を引かなければ起きない」。
ましてや今回の問題のように、「ユーモア」が誰かにとっての「引き金」になってしまったら、それは面白くもなんともない。それこそ、ただの暴力である。アメリカ人は、「表現」について、もっと考え直した方が良いと思う。「言葉が問題を引き起こす」なんていうのは、古今東西、あらゆる宗教と哲学によって明らかになっているではないか。

なぜ人間に教養や品性が求められるかというと、こういうバカなことが起きないようにするためでは無かったか。
さらには、間違いを犯した人間を叩けば、それもまた一つの暴力である。大衆は、間違いを犯した人間を叩くことによって自分が「こちら側にいるのだ」と確認しようとする。
だから、叩きすぎることがないように気をつけよう。
元来、人間は暴力が好きなのだ。

「人格にこれほどの暴力性を抱えた人間が、スターと呼ばれてきたことが恐ろしい」みたいな意見も多い。
賞を剥奪するとか、上映を先延ばしにするなどの措置が取られそうな雰囲気だ。
しかし、あれだけ流されやすいと言われてきた日本人が、この問題に対して特殊な立場にいる。
それは、「あのような場所で、あのような発言をする方が絶対におかしい。」というものだ。これは別に日本人の国民性というよりも、極々当たり前のことだ。
少なくともそんな発言をしなければ何事もなく終わったわけだから、これはやはり「暴力」を先に振るわれたと考えて良いだろう。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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