外から見える家々の明かりが、わりと好きだった
子供の頃から、夜の街が好きだった。街と言っても都会ではなく、ただの住宅街である。
それはなぜかと言うと、家の明かりが綺麗だからだ。
夕方から夜にかけて外を歩けば、門や家の窓の明かりが点いている。
なんとなく幸せそうなイメージが湧いて、心地良かった。心地良いといっても、当時の僕の精神は「虚無」そのものだったから、ほんの少しだけ精神に小さな光が灯るような、見落としてしまいそうな心地良さである。
でも、いまだに住宅街の明かりは好きだ。住宅街自体も。
これは僕の子供の頃の感覚を、うまく表している事柄だと思う。
そんな話を聞くと、「なんだかんだで寂しかったんだね」とか、「幸せを求めていたんだね」とか、そういうありきたりな感想を持つ人もいるだろう。残念だが、そういう萌え要素は無い。
疎外感や寂しさは、つまり、「自分もあの中にいられたら」という憧れだと言える。
今現在の自分の置かれた環境が、そういう典型的な「幸福の肖像」からは、かけ離れている。そういう可哀想な状況だ。
それが子供の精神を歪ませ、嫉妬や怒り、恨みへと変化してしまうこともあるだろう。皆が持っているものが、あまりに手に入らなさすぎると、色々と破綻してしまうのだ。
僕の活動も、そういう子供に見て欲しかったけど、そもそも子供はこんなYouTubeを見ないし、そういう環境にある子供がスマホを自由に使えるわけもない。そういう点では、全く無意味な活動である。
僕の話に戻るが、信じてもらえるかはわからないが、僕はあの家々の明かりを見て、どこか「ホッ」とする一方で、確かにこう思っていた。
「あの中には、死んでも入りたくない」と。
その後年々も経って大学に入る頃には、
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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