自分が知っていることは、自分が知っていると思っていることだ

この話題なら話せる、という感覚ってあると思う。
僕なら、数学や物理の話、理系分野の話ならある程度は意識せずに話せる。特に、自分の分野に近い領域の話なら、何も考えずに話せるだろう。
しかし、他の分野になると躊躇してしまう。なにせ、その道の専門家ではないから、偉そうなことは言えない。
それで言うと、僕はほとんどの道において専門家ではないので、無知同然の凡人ということになる。「いやいや、人よりも知識があるのは事実。あなたがそんなことを言ったら、自分たちは一体なんなのですか」と言ってくれる人もいるとは思うが、そんなものは誰しも大して差がない。

これまでの、動画や文章でいろいろなことを書いてきたが、総括すると僕は僕にわかることしか話していないし、書いてもいない。「今日は晴れだった」というような普遍的な事実は置いておいて(そんなことは誰でも知っているから)、実は、自分の人生で経験したこと、その上でわかることしか話してはいないのだ。

20数年生きてきて、僕にとって確かなのは自分の人生の結果だけだ。
それは、僕の経験であり、それが役に立つのも僕の人生においてのみだろう。
僕の人生で役に立ったものが、誰かの人生で役にたつとは限らない。
人に対して自信を持って「こうだよ」と言える人がいるが、僕にはそういうことは言えない。同じような局面、シーンに思えても、過去の経験や感覚が違うから、それをどう捉えるかもそれぞれに変わってしまう。

その精度を上げるために、人の経験や話を聞いたり、本を読んだりするわけだが、人間は自分にとって肯定的な意見を信じようとするものなので、「聞いた、知った」時点で、ずいぶんと情報が歪んでしまっている。
自分の耳に入った瞬間に、頭で色々と思う。その時点で、情報は大きく変化してしまうのだ。
むしろ、成功体験を聞くよりも、失敗体験を聞いた方が良いと僕は思う。

人の成功体験には、ドラマティックな脚色がなされることが多い。
無意識に、良い話として物語を作り上げてしまう。結果として感動できる、快感が生じるようなオチにつなげたいから、余計な演出が加味される。都合の悪い情報は、あまり語られない。
しかし、失敗体験は、正直に語られることが多い気がする。それを語ることができる現在は、おそらく余裕のある安定した生活を送っているはずだから、正直に語って本人がダメージを受けることはないし、誰かの役に立つためにできるだけ詳細に話そうとするだろう。
だから、失敗体験は、受け手が「なるほど。こういう道を避けよう」と意識しやすい。
失敗体験を語ることは、明らかに人のためになっているのだ。
成功体験は、語り手のマスターベーション的なところが多分にあると思うから、

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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