見出し画像

先生は科学が好きなんですか?という質問には、「君は呼吸が好きでやっているの?」と返す。

授業の中でちょっとした時に鉄道模型の話をしたり、食べ物の話をしたり、時事について話したりする。もちろん内容を限定しているわけではなく、その時々で色々な話をする。
前に書いたことがある気がするが、僕は授業の最後に生徒から「質問を書いた紙」を必ず提出させる。僕だけがやっている試みというよりも、先生方は色々と各々で導入していると思う。

1ヶ月でその質問は9000ほど集まる。90%以上が学問上の専門的な疑問、質問だが、残りは学問とは関係ない質問だ。もちろん、何十人も学生がいれば差があるので、それは仕方が無い。
ただ、その中でも最も多い質問が、「先生は何故〇〇になろうと思ったのですか」とか、「先生は何故〇〇が好きなのですか」という類の質問だ。とにかく何かにつけて「なぜ?」と聞きたいらしい。
それに続いて、「〇〇に意味がありますか」という類の質問。
明確な質問を持っている人にとってはどうでもいいことだが、明確に疑問や質問を持っていない人に質問を考えさせると、これらのニュアンスを含んだ質問が多くなる。

「子供の頃から科学が好きなのですか?」と聞かれることもあるが、「一つのことが突出して好きな子供っているのかな」と書いて返す。
「子供の頃から目指していたのですか?」と聞かれても、「目指していない」と返すしかない。これも、そんな奴いるか?である。
子供って色々なことが好きだし、危険なことをしたがったり、そういうものだろう。とにかく今知っている世界の外のことを知りたい、というベクトルだ。そんな中で、「僕は将来、〇〇になります」なんて言う子供の方がおかしいと感じる。それはもう大人だろう。僕の個人的な意見だけど。(ダメだと言っているわけではない。)

多くの子供は、漫画やアニメやゲームや音楽やスポーツや勉強や、誰か特定の人のことや、色々なことが好きなはずだ。僕だってそうだった。だから、「何故、研究者になったのですか?その進路を選んだのですか?」と言われても、「たまたまそうなっただけ」としか答えようが無い。人生って、そういうものでは?
「この人は明確な意思があって、今その立場にいるのだろう」と考える人が多いようだけど、それには「あなたは何か明確な意思があって、大学にいるのですね?」と答える。
大学生は、わざわざお金を払って授業を受けに来ているわけでから、僕などよりは「明確な意思」を感じる。でも、「明確な意思がある人はこういう質問をしないのではないか」とも思うから、やはり生徒の方にも矛盾があるものかも知れない。もちろん、僕には大学に行くための明確な意志など無かった。その点では矛盾しない学生だった。
明確な意思も無く、偶然にも研究者になったわけだから、今現在の立場は矛盾しているように見えるか。矛盾こそ人間の美徳だ。
矛盾を排除しようとする若者や大人、親が本当に多い。矛盾を内包したまま生きていけるのが、人間の凄さなのに。

質問の中でも、「なぜ建築にまつわること(流体や材料、耐久性、デザインなど諸々を含めて)が好きなのですか?」と聞かれるのは、もういい加減しんどいなと思う。
そこで僕は、ボーイフレンドやガールフレンドがいる生徒には、「君は、なぜ恋人のことが好きなの?」と書いて返すのだが、それを読んで何か考えてくれたら良いなと思う。何故って聞かれても、そんなことわかりませんよね。楽しいから、じゃないのかな。

もっと言うと、「え、そんなに好きに見える?」という感じ。「好きって何?」という感じ。好きなものを限定したつもりはないけど...。
確かに、国語よりは物理が好きだけど、だからと言ってそれに携わっている時にずっと「好きだなあ」と思っているわけではない。ばらつきがあるし、なんでこんなことをやっていたんだっけ?と我に帰るような時もある。(そもそも、「我」にも色々ある。)
言葉でハッキリと言えなくても、楽しいと感じるならばそれで良いのではないか。

ここから先は

1,201字
10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?