「何を言っているかではなく、誰が言っているかが大切」みたいな記事を見た。
見たというか、このタイトルを目にした。noteのおすすめ記事だったと思う。
ただ、こういう考え方はちょっと危ない気がする。
言葉には全て意図があるし、意味がある。何を伝えようとしているのか、ということだけが重要で、そこに問題などを解決するヒントがあるのだ。もちろん、言葉の意味は誰が言っても変わらない。
もし変わったように思うなら、それは人間の主観がその言葉以上の何かを脚色してしまうせいだろう。
つまり、言葉以上のものを受け取る能力、性質が元々あったということだ。
「この人の言葉が、問題解決のヒントになった」ということが結構ある。でもそれは、きっかけに過ぎない。元々、それを求める意識、問題を解決する方法を模索しているから、「勝手に救われている」だけの話である。
しかも、一時的に救われた気にはなるが、別にそれで終わりではない。また同じような穴に嵌まってしまう。
言葉など、所詮その程度のものだ。
例えば、僕はよく新書を読む。
しかし、それを書いている人が誰かは知らない。養老孟司くらいならわかるが、ほとんどの場合、何者なのかもわからない。筆者の紹介もわざわざ見ないので、内容が面白いかどうかにしか興味が無い。先輩の先生方にいただくこともあるが、いちいち名前を覚えていないし、偉い人だからと言って「面白い本だ」とも全く思わない。「商売がうまいな」と感心するだけだ。
そもそも、文章というのは「納得したいから」読むわけではない。自分が知らない何かがあるから、それを知ろうとしているだけだ。納得ではなく、知らない物を知るために読んでいるのだ。
言葉をただ受け入れていくのもそうだが、筆者がその言葉を持って「何を伝えようとしているのか」ということを考える。それは、会話でも同じだ。
これが、話している人間によって言葉の意味が変わってしまうなら、言葉によって記述されている世界が歪んでしまう。
確かに、この人が言っていると納得しやすいとか、信憑性がある、という錯覚はあるだろう。
自分が欲しい言葉や、その言葉がきっかけになって思考が進んだりすることもある。ただ、その伝達は言葉でしか行われないわけで、発信する人間によって意味や、真実味が変わってしまったらおかしい。同じことを繰り返し書くが、それは言葉をキャッチする側の問題だろう。
例えば、あなたが何かに困っている時、いろいろなことを言う人がいる。
「時間が解決する」
「もっと考えろ」
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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