動物は自然で良いと言うが、そんなわけは無い。
動物は自然体だから、見ていると癒されると言う人が非常に多い。
こういうのも「言葉」に対するイメージというか、人間がいかに言葉を適当に捉えて、適当に言っているのかがわかる。もちろん、僕は国語の専門家では無いので、よく言葉を間違うし、言葉もさほど知らない。
ただ、ある言葉を聞いて、一体それは何のことを言っているの?と考えはする。
「自然」という言葉、概念は基本的に「良いもの」として語られる。
山や海に行って自然に触れることで癒されるとか、動物と触れ合うことで癒されるとか、宇宙にはロマンがあるなど。それら全てに「考えさせられる」みたいな意味合いも含まれているような感じで、聞いているとなんだか窮屈になってくる。それこそ、不自然な感じだ。
ただ、宇宙に関しては僕も興味があるし、好きだ。好きというか、科学でもいまだに把握できないところがたくさんあって、面白い。もちろん、ほとんどのことが既に把握されてはいる。
例えば、サバンナにいる動物を見て「自然の厳しさ」みたいな話をするのだが、僕は「そもそも自然体」って何?と考えてしまう。
自然体と言うが、本能まで放棄するような安心感で眠りについている動物がどれほどいるというのか。寝られる場所を確保しても、いつ何時襲われるかわからないという意識は、動物の本能だ。それはもちろん、僕たち「猿」にも備わっているもの。そういう意味では、動物としては「自然な能力」と言える。
安らかに眠りにつけない、明日食べる物が確保できるかもわからない状況こそ、「自然」と言える。
人間は、この「自然」に立ち向かい、「大自然の猛威」をいかに自分たちの生活から排除するかというベクトルで発達していった。これに比べると、「動物」は人間よりもスカラー的である。
子供の頃の僕の生活は、かなり動物的だった。そういう環境に置かれていたということだが、本能に根付いた生活を強いられていたように思う。
サバンナの動物と自分を比較するのは動物たちに対して傲慢な気がするが、少しくらいは気持ちがわかる(動物に気持ちがあるかどうかは、微妙なところだが)。サバイバルとは言わないが、動物的な生活を疑似体験した。まさに「自然」を体験したわけだ。
結果的に、大衆がこぞって群がる「自然」など、どこにも無いということがわかった。少なくとも、自然の良さそうなところだけを切り取って、「自然は美しい」などと適当なことを言っているに過ぎない。
地震、火山の噴火、台風、全て迷惑でしかない。悲しみ耽る人々に「自然はなんて美しいのだろう」と言える人がいたら、少し話を聞いてみたい。
自然は確かに綺麗だと思うし、僕も好きな方だ。
ただ、その自然はもっと広いもので、山登りやキャンプなどに限定されたシチュエーションではない。それで言うと、同じ山登りでもマッターホルンと金剛山では全く趣きが違うだろう。そう考えると、程よい疲れと達成感で得られる感動が欲しいだけ、ということもわかる。
僕だって都市部よりは田舎に住んでいたいが、そこで自給自足の暮らしがしたいかと言われれば、全くそんなことはない。
電気も使うしガスも水道も使う。社会インフラは使える限り使うだろう。その恩恵を受けながら、自分が理想とする生活がしたいだけだ。「自然」からすると、ただの迷惑な奴である。
かと言って、いい感じに自然を取り入れたいとも考えている。ただ、山登りやキャンプをして「自然って良いね」と言う人とは少し違うう。たかがそれだけのことで「自然」を感じられるほど、僕の感受性は敏感ではないのかも知れない。
僕は自然を感じる時、強い感動を覚える。何かが「わかる」時というか、色々なものが繋がっているように感じられて、負の感情も正の感情も消え失せる。
宇宙空間に一人放り出されたような浮遊感というか、自分がそれと同じくらい大きくなったようにも感じられる。その一方で、もっとも小さな単位が自分だとも感じる。
言語化することは難しいが、自分を失ったように感じられ、かと言って感動の主体は「自分」にある。自分そのものがまさしく「自然」になっているような感じだ。
相対的な感動ではなく、絶対的な感動というか、「禅的な美ってこういう感じかも」とわかる。これが別の国の人なら、また違った感じのニュアンスに感じられるのだと思うが。
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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