「内と外」という重要な概念を、なんと家事から学ぶことができる。
当たり前のことだが、家には外があり、内がある。
例えば、家を建てる想像をしたとき、皆は何を優先するのか。
優先度でいえば、家の中にこだわるだろう。家の中から家の外観は見えないから、まぁどうでもいい。
これは、キャラデザインでも同じことが言える。
例えば、今現在の僕の髪型は、相応の格好をして新宿のヴィトンの前に立っていたら、「ホームレスか」と思われるようなスタイルをしている。
そんな僕が、「おしゃれですね」と言われることすらある。完全な誤解である。
ホームレスと思われるような髪型をしているのに、おしゃれですねと言われる。その2つの情報から、どのような状況が推理できるだろうか。
ミステリ小説の探偵にでもなった気持ちで、考えてみてほしい。
種明かしというほどではないが、小綺麗にしているタイミングで、たまにしか会わないような人と会った、だから、その人は小綺麗な時の僕の姿しか知らない、というだけの話なのでした。
ところで、再三書いてきたが、家事から学べることは他にもたくさんある。
その行為から、人生における基本的なことが、ほとんど学べると言っても過言ではない。
わかりやすい言葉で言うと、自分と向き合ったり、内省することができる。芸術も、研究も、どれだけ些細なアウトプットも、何が素晴らしいのかといえば、それらの行動には「自分とその対象」しかないからだ。アウトプットのみならず、芸術鑑賞は自分と、その作品との向き合いしかない。
自分と対象の間には、何も経由していないから、これもストレートな自分との向き合い方となる。
家事も、夫や妻が怒るからとか、人を呼ぶときに恥ずかしいからと言う動機では、おそらく大したことは学べないだろう。
誰かより賢くなりたいからと考えて、絵画や音楽、文学などの芸術を知識として持っておきたいと思うのも、本当に意味での感動をすることができないと思う。作品は特に、頭に入ってこない。
やりたくてやっているわけではないからだ。それこそ、これらはただの労働になってしまう。
自分の容姿をカッコ良くする、という行為は、一般には「他者から見てカッコ良くなるように」するものであって、それは純粋な自己満足ではない。
その行為をするのに、他者の視点を取り込んでいる。これでは、自分と向き合っている、一対一になっている、
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
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