よく聞き、よく見、1秒間で感じられる情報を増やそう。
不意にテレビをつけたら、どこかの動物園のロケだった。
その動物園に熱帯雨林を再現した屋内エリアがあって、そこにはアフリカに住む鳥が生息している。
その中にいるある鳥が、「この鳥は、日本ではここでしか生育していません」と説明されていた。
その後、そのロケに出ている女性芸人が「へー、初めて見た。」とコメントした。テレビタレントの割に国語力?の低さというか、空気が読めないのだなと感じた。
ただ、自分で言っているわりに、「国語力」というのが一体何のことなのかは知らない。
また、空気を読むの使い方も違うと思う。
僕が言う「空気を読む」は、「その場の雰囲気に従う」という意味ではない。
「ここにしか居ない鳥」と言っているのに、「初めて見た。」と発言することを「空気が読めない」と思ったのだ。
テレビタレントが自分の年収なんかを冗談まじりに言ったりすると、視聴者によっては「誰でもできる仕事」と感じるだろう。
テレビに出るには何かしら秀でた能力が必要、と思いがちだけど、この人にしかできない仕事、というのは案外少ない気がする。やはり、仕事である以上、ある程度は「交換可能」なのではないか。
「こんなにも面白くないのに、なぜテレビに出られるのだろう」と思うタレントは、確かにいる。見ているこちらが恥ずかしくなってくる時もある。
まぁ、それはどんな仕事でも同じかも知れない。
仕事など、元来恥ずかしいことだ。いくら美化しても、全員が恥ずかしいことをやっている。
エンタメというのは、それまで大衆には遠かった芸術や発想の世界加工して、奥行きや深さを排除する世界だと思う。
基本的にはコピーペーストの文化で、質より量だ。漫画やアニメを見ていればわかる。もちろん面白い物もあるが、「ああ。このパターンね。」という物もたくさんある。まさに玉石混合だ。
その中に、まれに光る物を感じる作品が見つかる。
消費していくことが目的で、もちろん消費は儲けに繋がる。
抽象的な話だが、感動や面白さを「与えられる」か「取りに行く」かで、かなり哲学できるのではないか。
もちろん、作品に正解など無い。自分が面白い、と思えたらなんでもいい。
しかし、なんでもいいが、やはりたくさんの物をインプットしていくと、「なんでもいいというわけではないのだな」ということがわかってくる。
では、何が面白いのか、なぜ面白いと感じるのか、それは自分の方に要因があるのか、作家の力なのか、そういうことを考えるようになる。
そこまでくると、自分の方もそれなりの審美眼みたいなものが発達する。「探す」という感覚が育ってくるだろう。
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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