規則正しさが「善」というイメージを持ってしまう。
規則正しく生活をする、ということが、とにかく推奨されています。
しかし、規則正しさを考える時、「朝型」でなければならないというイメージが湧せませんか。
どうしたってそれができない、ハードルが高い、という人にとって、「規則正しさ」は異星の習慣に思えてなりません。
この「隔たり」を感じることが、人と人の「分断」に繋がっているのでしょうね。
人と人との分断が悪いということはありません。皆が同じでなければならない、という方が妙だし、生活リズムも自由に選べたら素敵だなと思います。
僕は、人と人はもっと分断されているべきだと考えていますし、その方が絶対に自由。人間らしいと思える。
でも、どうしても僕たちの生活には、社会が関わってきます。
社会と関わらなければ、生活が成り立たない。完全な夜型だと、なかなか社会のサービスも利用できないし、あらゆる面で不便です。
かつてはスーパーなども夜になれば閉まったし、陽が出ているうちに活動しなければならなかった。
夜型の人、体調を崩していて生活が大変な人は、「排除されている」ような感覚に陥ることもあったでしょうね。
規則正しさというのは一体何なのか、そこを今一度考えてみたいと思います。
「規則」というのは「定められた事柄」というような意味です。
そして、その定められた事柄が「正しく」行われているかどうか、ということが問われている。
定められた事柄を正しく行なっているかどうか、というのが、いわゆる「規則正しさ」だということでしょう。
ここでの問題は、「朝型」の生活を定めたのは社会であって、
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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