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ある個人がただ「自然」にそこに在るだけで、誰かが嫌な思いをする。もしそれが花なら、そこに在るだけで綺麗だそうだ。

人間関係について色々と考えていると、なぜ人間はより良く、つまり、人間性というものを向上させていかなければならないのか、という問題に行き着く。そんなことが、人生で何度かあった。

僕は、なぜかわからないが、とにかく「良い人間」になることを目指してきた。
良い人間というと、少し表現が違うかも知れないが、なんとなく向上するべきだと考えていて、そのために生活を送ってきた。自分の良くないところを観察し、なぜ良くないのか、どのようにするべきなのかを自問自答してきたのだ。
そう聞くと、いかにもしっかりした人間に思えるかも知れない。実際、僕は世間では「ちゃんとした人」みたいなイメージを持たれることが多い。周囲からも、そのように言われている。そう思われているだろうな、という雰囲気を感じるのだ。
ただ、僕自身は全くそう思わない。どちらかと言うと、良くない人間だなと感じる。僕は自分の視点を信じている。

原則、人間は別に向上なんてしなくても良い。
とても簡単な理由だが、要は人に迷惑をかけなければ、どんな人格の持ち主でも構わないし、「小学生の裸体が見たい」という夢を持っていたって、何ら問題が無い。実際に「犯罪行為」に出たり、そのことで誰かに嫌な思いをさせない限り。
これは、その人の「趣味」の範囲であり、「ゴルフが好きだ」と言っている人と同じだ。ここは、絶対に間違えてはならないところで、その違いがあるからと言って、互いに侵害しないことが、僕たち社会にいる一員のルールである。
ただ、それが大勢に認められる趣味なのか、嗜好なのかという違いだけで、排除されるべき問題では無いのだ。
もちろん、あえて口にしない方が良い趣味はある。思想もある。それが皆の理解を得られる感覚ではないという自覚は、必要だとは思う。理解を得る必要は無いが。

では、犯罪行為をしなければ、個人の思想も、行動も「完全」に自由かと言えば、そこまでは言い切れない。これが、今日のテーマだ。

「花はただそこにあるだけで人を癒す」みたいな話がある。これは明らかに言い過ぎだと思うが、確かなことは、「人間は花のように在るだけで、綺麗なわけではない」ということだ。
なぜそう思うかと言えば、実際に、この僕自身が、ただそこに在るだけで人を傷つけたり、嫌な思いをさせたりしているからだ。そんなことは、何度もある。
もちろん、相手にもよるだろうし、ある場合では相手の方に問題があることもあっただろう。
しかし、ほとんどの場合、僕が誰かに嫌な思いをさせる時は、僕の言動のせいだ。そのことは、僕自身が言うのだから間違いが無い。それが事実だということに、自信さえある。
例えば、普通に話しているつもりでも、人に嫌な思いをさせることがある。

自分より目上の人にせよ、生徒などの世代が下の人にせよ、誰かの相談や、ちょっとした悩みを聞くことがある。そんな時、何も意識せずにそれに応じると、僕は「感情を抜きにした発言」をしてしまう。一般に、それらは「冷たい発言」と評価されるだろう。
もちろん、それ自体が問題というわけではない。色々な意見があっても良いし、誰に聞いても同じような回答というよりも、相談者としては有意義だと思う。人の視点を少し変化させることがあるかも知れないし、感情的ではない意見、客観的な意見なら、僕は自分の意見に責任が持てる。僕は道理に沿って話をしているだけだからだ。逆に、感情なら日々の生活の中で変化してしまう。だから、その言葉に責任も取れない。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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