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前回に続き、何よりもまず「やること」から、楽しさのピークについて。

まずやってみることが何よりも大事。みたいな話をしたが、もちろん「何もしない人」なんていない。家事、仕事、趣味、その他いろいろと活動をしている。
読者の中には、「自分は何もやってない」と思う人もいるかも知れないが、それは明らかな誤解だろう。

ただ、このテーマで僕が話しておきたいのは、そういう話ではない。
生活に追われて忙しい人もいると思うが、そもそも楽しさというのは「自分で見つける」ものだ。「これだけをしていれば楽しい」という普遍的な行為なんて無い。
もし、多くの人が楽しめる事柄があったとしても(流行り物などがそうか)、自分もそれを楽しめるとは思えない。
むしろ、流行などの与えられたものを消費することでしか楽しめなくなるのは、けっこう危険だ。

流行り物に反応するなど、多くの人間と感性を共有しているような感覚、状況が続くと、不思議と悩みや苦しみも他者と似たものになってくる。
多くの人が同じことに苦悩するわけだが、そこから抜け出すための発想の転換は、何故か訪れない。もし、それが容易なら、誰も悩まないはずだ。
そこで、さらに「そこから抜け出せますよ」と手招きする人間が現れる。こういうのを「搾取」と言う。
そこから抜け出す方法が書いてある本を買う、頭皮できるどこかへ行くなどの行為が伴うわけで、金がかかるし無駄な体力を消費することになる。しかも、本人としては「行動」しているのに、努力している感だけが積もっていき、「自分はダメな人間だ」と短絡的に答えを出すことになる。ほとんどの場合、それでは解決しない。それでは解決しないが、それを手放すとより解決しない気がしてきて、もうそこから抜け出せなくなる。「そこ」というのは、堂々周りの思考、考え癖、環境なども含めてだ。
流行り物と一口に言っても色々とある。例えば、神社仏閣に行くのも流行りだし、自然と称されるものが豊富な場所に行くのも、もちろん流行りだ。

「自分の金や時間が、何者かに搾取されている」ということに気づかないから、こういうループが続く。(言っておくが、別に続いてもいい)
また、このループが続く要因として最も大きいのが、「共感」だ。つまるところ、同じような状況にある人間が多いから、「自分だけではない、みんなそうなんだ」という安心感が生まれ、「まぁ、人間なんてこういうものか」と納得するわけだ。
付け加えておくが、そういうシーンから生まれる「人間なんてこういうもの」的な感情は、只々「虚無的」なだけに終始している。そんな思い込みから来る思考停止、というプロセスに陥らないように気をつけたい。
もちろん、流行りや自己啓発を促す側の人間は、僕たち大衆が、そういう心理で動く、「そういうものか」と落ち着くところまで計算済みなのは当然のことだ。
それで楽しむことは悪いことではないが、自分がそういう状況にあることだけは自覚しておこう。

こういう現象が起きる原因は、人が求めているものの違いだ。行動の動機と言っても良いかも知れない。
多くの人は、とにかく自分の外にあるもので楽しもうとする。何かを買う、どこかへ行くといった具合に、それだけでファストな楽しみを得る。生きるということは楽しさを求めることではあるかも知れないが、それは楽しさの質による。

例えば、僕は楽しさを求めているが、まず僕が探しているのは「問題」だと思う。「悩むため」に楽しさを求めているということだ。
普通は、悩みを退けるために楽しもうとする。「発散」しようとする。しかし、それでは問題が先送りになるだけで、負債が溜まっていく一方だ。金銭的な負債ばかりに気を取られる人々だが、なぜ人生の負債、自分への投資を考えないのか。そこが僕には、不思議だ。
自分が持っている知識や悩み、感情、全てのことを別のことに「応用」してみてほしい。

学校には必ず、数学や物理の授業がある。発想の転換を可能にする知識を得るために、これらが推奨されている。
世界中のどこを探しても、これを推奨しない国家は無い。もし親になる機会があったら、このことを忘れないでほしい。
「親になる機会」という言葉から、発想の転換を図れないか?他のことに応用できないか?そういう癖を付ける。
そうすると、「そうか。自分自身を、自分の親と考えれば良いのか」という知識、知恵が生まれてくるはずだ。
このプロセスこそが「楽しさ」である。「知る」という行為の実態である。物や知識を金で手に入れるのは構わない。ただ、それを持っているだけでは、何にもならない。持っている物を解剖し、観測し、それを別のものとして組み立てる。それが「知る」ということだ。自分だけの知識を構築していくことが、人生である。

なぜ、子供や大人がこぞってゲームをするのか。それは、「知る」を疑似体験することができるからだ。買うだけでは、何にもならない。プレイして初めて、その中にある楽しさを知るわけだ。
しかし、もちろんゲームには圧倒的な欠落がある。それは、「ゲームクリエイタ」に与えられた楽しさであり、そのゲームの中で起こり得ないことは、絶対に体験することができない。知ることができない。どこまでいっても不自由に変わりはない、ということだ。そういう事実は知っておこう。(僕は今、ゼルダの伝説 夢を見る島をプレイしています。その次は、ドラゴンクエストⅪの予定)

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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