事実とは何かと考える1
事実という言葉を使うことは、さほど多くない。
事実という概念は日頃、あまり意識されるものではなく、自然と同じように「当たり前に起こっていること」として流れていくものだろう。
僕はある時期、頭の中で「事実とは何か」と考え続けていた。
辞書で簡単に引いてみると、「実際に起こり、または存在する事柄。本当のこと」と書いてある。
「確かにあること」で、それだけは絶対的に変えようのないことだ。そして、人々にとって「捉え方」が変わるものでもない。
例えば、今雨が降っているとする。
「天気は雨である」という事実は、科学的に定義されてもいる。雨が降っているという状態は、誰にとっても「事実」の現象だと言える。ここを否定することはできない。
「いや、自分にとっての雨は晴れだ」と言うような捉え方は、その人個人の「感じ方」であり「感性」であると理解して欲しい。
それは飽くまでも「主観」に基づいたものであり、「あなたにとっての現象である」ということだ。
もちろん。悪くはない。心は自由だから、どう捉えるのも結構である。それこそ、それぞれの捉え方によって「素敵な言葉」になったり、作品になったりする。
綺麗なものや美しいものは、いつも強い「主観」から生まれてくる。
だから、主観を否定するわけはない。自由な感性で遊び、大切にして欲しいと思う。
しかし、それのみで生きていると、辛いことに遭遇するシーンが多いだろう。
嫌な話だが、僕たち人間は「自由」には生きていけない。感性を大切にして、主観を尊重しながら生きていきたいが、そういうわけにもいかないのが世の常である。
雨の話に戻ろう。
これに「主観」を当てはめて考えると、大きく分けて2つの感情を持つだろう。雨が降っているという事実を、「厄介なもの」として捉えるのか、
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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