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好きでも、疲れる。そんな時、自分を手放せたら素敵だ。

僕は日頃から「生活」が重要だ、と言っている。日々の生活がその人を作っているのだ。その生活の中で得たものが全てだし、最も身に付く。

好きな物というのは、好きゆえに毎日でも触れていたいと思う。
そうすると、「自分と同化」してしまう。それに対して疲れたり、「今はちょっといいかな」と感じる時がある。好きな物だって毎日のように食べていたら、もう今日はいいやとなる。つまり、時に人は「自分のことを苦手」だと感じるということだ。人間というのは、非常に面白い。

これも、「才能について」などのテーマで取り上げている「具体性」だ。
自分が触れているものは、この世界においてより具体的になり、遠いものほど抽象的、曖昧になる。遠くにある知らないことは、知れない。
また、知っていること、精通していることでも、人によって理解の仕方は違うし、洞察の深さも違う。そう考えるとやはり、自分にとって好ましい対象は「自分にとって」非常に具体的であり、自分の一部になることもあるだろう。
人はそうやって色々な対照を、自分の中に取り込んで生きている。まさに、自分の世界を作り出しているのだ。
完全に自分の一部にしてしまえる人も凄いが、それは錯覚であり自分ではないので、思い通りにしようとは思わないように。

それだけ好意的な物でも、その対象で意識がいっぱいになってしまうと、それ自体がプレッシャになる、という人もいるだろう。
思春期の恋愛のように、それまであった自分の意識が曖昧になってしまうほど、その人のことでいっぱいになってしまう。「お前は恋をしたことがあるのか」と言われれば、返す言葉も無いが...。
次第に、その圧と「自意識」が混同する。結果的に、疲れてくる。
例えば、僕も何か作っている時は楽しい。行為としても、非常に好きだ。でも、「今日も何か作らなければならないのか」と思う時はある。休みの日になると、もう自動的に予定を組んでしまい、結果として疲れの方が大きいこともしばしばだ。

「好きなことをやりたいという気持ち」があるだけで、対象はなんでも良いのだろう。
だから、その対象が多ければ多いほど、楽しい時間は増える。ラーメンが好きなだけの人はそれに疲れたら休むしかないが、カレーも好きならカレー屋に行ける可能性や余裕が生まれる。
好きなことをやらないために好きなことをやる。それが気分転換になる。

それでも、退屈を欲す時、今日は何もしたくないという時、読書や映画を見たり、調べ物をしたりする。それさえやりたくない時は、僕にはあまり無い。強いて言うなら、どんな小説を書こうとか、音楽を作ろう、と考えたりする時は、本当に何もやりたくない時だと思う。これも昔からの趣味ではあるが。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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