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文章を書くための、姿勢。まず、親切であること。

文章を書くコツを教えます、と大々的に広告する本を見かける。こういう本を僕は読んだことがないから、どういう内容かは知らない。結局、誰かが自分の代わりに書いてくれるわけではない、と考えると答えは簡単な気がする。
そういう元も子もないことを言ってばかりいると、誰も読まなくなるのかも知れない。

当の僕には、文章を書くコツと言えるほどのものは無いが、経験だけはある。学生の期間も長かったし、「文章なんて絶対に書きたくない」と思っていたのに、結果的に一般職の人よりも多く文章を書く人生になった。しかも、人の文章を指摘したり、修正したりする立場にもなった。自分が誰かに何かを指導するなんて、考えもしなかった。
僕は元々、文章を書くことも嫌いだったし、読むのも苦手だった。文字も言語も苦手だという意識があったし、実際に、僕より語彙が豊富な人は周囲にたくさんいる。
しかし、そんな僕もたくさんの論文を読んだり、書いたりしている内に、気が付いたら「書くこと」には抵抗が無くなった。
それがいつからなのかは、覚えていない。気が付いたら、という表現が的確だと思う。

まず、始めに心得ていて欲しいこと、そして絶対に忘れないようにして欲しいことを言おう。
それは、「文章は書かなければ上手にならないし、『文体』も、書かなければ生まれてこない」ということだ。これだけは、絶対に覚えておいてほしい。秘訣でもなんでもない、これは条件である。

語学をする際に、「赤ちゃんは、勝手に言語を話し出す」という話がある。自国の言語を正しく覚えるだけでも、色々なルールや表現の歴史、文法があるのに、「話す」ことに限っては幼児でも可能なのだ。これは一体、どういう理屈だろう?
つまり、「言語は自分の口から発することで覚えていく」ということだ。
自分の口で実際にアウトプットすることで覚える、身に付くという機能は、人間が持ちうる真理の一つだと言っていい。これを否定することは、難しいと思う。サッカーをやったことがないのに、サッカーがうまいわけがないし、楽器を弾いたことがないのに、楽器を弾けるわけがない。当然のことである。

例えば、読書をして単語を覚えていくようなこともあるだろう。しかし、覚えた言葉を適切な状況で、実際に使用してみなければ、それを自然に使用することはいつまで経ってもできないし、記憶としても定着しない。頭の中で反芻することも大切だけど、それだけでは定着が甘くなる。
仮に、友達も親もおらず、知人も少なく、ほぼ人と会話をすることが無い人がいたら、おそらく言語能力は低くなるだろう。では、人と会話をしたり、文通、メッセージのやり取りをしない人の言語能力が低いかというと、全くそんなことはない。
もし、それでも様々な表現や単語を理解している人がいたら、答えは簡単だ。その人は、日々の生活の中で日記や小説、詩などの創作をしたり、随筆を書いたりしているからだ。
頭が良いという形容は、知識をたくさん持っていること、学歴ではない。何かしらのアウトプットをして、その道具の使い方を知っている人のことだ。これを、教養と言ったりもする。
もちろん、それができないから馬鹿だ、と言っているわけではない。まだ自分の頭が良いのか知らない、頭の使い方を知らない段階だということ。

実のところ「文体」という概念も、僕にはよくわからない。
作家も、自分の文体をさほど意識しているとは思えない。それは個性と同じように、勝手に表れてくるものであり、やはり先に「書く」という行為ありきだろう。書かなければ、文体など存在しない。
大学に入学すれば、文章は皆、丁寧に理路整然と書けるようになる。大学で小論文の課題などを書けば、先生が「てにをは」を修正してくれる。これは別に、「大学生が凄い、そうじゃない人はダメだ」と言っているのではない。書けば誰でも上手くなる、という建設的な話だ。だから、家で日記を書いている人は、書くのが上手くなるということ。
書いてアウトプットすることで、思考も整理される。

文章が上手い、というのは何も美しい文章を書けるとか、才能を感じさせるということでは無い。単純に、「他者がそれを読んだとき、その内容を理解できるか」だ。この場合の「理解」は、書いた人(自分)の主張や伝えたいことが自分ではない誰かにわかるように書いてあるか、の意味である。
インタビューなどでよく聞く作家の言葉として、「作品は作者の物ではなく、それに触れた人の物」というものがある。自分でも何かを作る人は、その意味がわかると思う。
これは、もうすでに書かれたもの、作られたものは、他者が触れた時点で、作者の物ではなくなるという意味。

絵にしても造形物にしても文章にしても、それが何を表しているか、どのような感動を覚えるかは、触れた人によって変わる。
芸術なら具体的な意味など無いし、そもそも抽象的な動機で作られているから、それぞれの捉え方をするしかない。「何か」を得てくれれば、それだけで意味がある。意味や価値は、それに触れた人が各々で考えれば良い。小説も詩も、ほとんどそれを同じだろう。まぁ、「考察」と称して、「このメタファは〇〇を表している!」とか、どの捉え方が正解かなどという議論を好む人間もいるから、そういうは放っておくと良い。作品は自信を持って、好きなように受け取り、理解しよう。そもそも、自分の感性を刺激するための体験なのに、人の考察など意味が無い。時間の無駄である。

しかし、エッセイやノンフィクション、学問における知識書、理論書、などはそういうわけにはいかない。まず伝えようとしていることが客観的な知識、つまり事実であり、決められた定義や意味が始めから決まっているからだ。教科書を読んだことがある人は多いと思うが、仮に「普遍的な教科書」なるものがあるとしたら、どうだろう。そこには客観的な事実しか書かれていないはずだし、書いてはならないはずだ。

地震があり、その震度や被害を伝えるときに、その情報を見た人それぞれが違う捉え方をしたら、情報としての価値が全く無い。
交通事故があり、被害に遭った人が生きているのか死んでいるのかが、その報道を見た人によって変化してしまったら、報道としての価値が無い。
降水確率が見る人によって変わったとしたら?
定められた法律が人によって変わったとしたら?
100センチという長さ、10キロという重さ、170センチという高さ、その数字が示す値が人によって違ったら?
人が表す単位や記号も含めて、言葉の意味や定義が人々の捉え方によって変化してしまったら、人間社会はめちゃくちゃになる。言語は人々が共通の認識を得るために最も効率的かつ合理的な道具なので、「決められていること」があるなら、それをできるかぎり守らなければならない。
そういう意思が無いから、人々は常にすれ違い続け、誤解し続け、その隔たりをより深め続けているのだ。
正しく表現しても、誤解は必ず生まれる。人には感情があるし、考え癖があるからだ。ただ、だからと言って物を書く側が諦めていたら、それは表現をする者としては二流だと言われるだろう。
少なくとも、そういう意識を持って書かなければ、諦観することもできないはずだ。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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