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「思い出す」ということから発見できる、内と外の些細な話。
お風呂に入っている時は、だいたい何か一つのことについてじっくり考えることが多く、どこまで洗ったのか忘れがち。風呂を上がってから、「あれ?頭洗ったっけ」と思うことが多い。
今日は、「何か、哲学だな」と思った瞬間があったのだが、思い出せず。3分くらい考えてもいまいちピンとこず。
その後で、これかなと一つ思い出せたのは、とある器具を洗っている時に、いつもよりその器具の重量が少し重い気がして、よくよく見てみると、その器具の中に一つ器具が多く混じっていた、というどうでもいいお話。また、そのことを視覚ではなく、手に持っている時の感覚で気付いたということも、同時に思い出した。
普段、生活の中で意識には上らないが、なんとなく感じていることはは多い。例えば、気圧の変化、ホルモンバランスの変化などは体で感じている。
しかし、具体的に体に不調が表れて、そこで初めて認知するのだ。
もし、この器具の重さのように、感覚で異変に気づくことができたなら、自分の体の中の揺らぎまでもが分かるようになったなら、その体の揺らぎから来る感情にも気づくことができる。その後に起こると予測される事柄を、調整できる可能性が生まれてくる。まるで、連想ゲームのように人生は進んでいく。
何事にも必ず原因があり、その結果がある。現象には必ず理由がある、というのは某理系アイドルのセリフだったか(湯川学)。
そこまで考えて、「やっぱり始めに思い出したかったことと違うな」と思ったが、でもこれはこれでいいと思った。
確かに、気になることは思い出したいし、わからないことは知りたい。人はその違和感に執着してしまう。何か自分の肉体の一部分を失ってしまったような、そんな感覚に襲われるのだ。
しかし、自分の中にあるのはその違和感だけで、気になることもわからないことも、元々は自分の中にあったのではない。ほとんど外から仕入れた情報ばかりだ。それなのに、「自分の一部」のように執着してしまうのだから、不思議な話だ。知識を自分のものにする、とはどういうことなのか考えさせられる。
こういう時、思い切って手を離してみる勇気も必要だと思う。何を失うわけでもない。そのこだわりや執着、時には愛着までをも手放すことで、速やかに思考のルートを切り替えていく。そういう能力が人間にはある。
むしろその柔らかさの方が、人間に備わっている能力だと思う。でなければ、これほど文明を発展させることはできない。
こだわりを捨てることで、緊張を解く。リラックスをする。やってみると意外と、簡単な方法である。優れた発想はいつも、意欲的に考えていない時に降りてくる。
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