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ちょっとしたことに手紙を書く人がいる。ひと手間かける、という優しさが微笑ましい。

よっぽど特別なことが無い限り手紙を書かないし、もらっても仕方が無いと思っている。期待されるほどのリアクションもできないから、申し訳ないと感じる気持ちが大きい。

職場でも、何かにつけて一筆添えられた物を貰うことがある。「こういう手間はかけないでください。無駄な労力です」と失礼なことを言っても、毎度しっかりと手間をかけてくれる。書くのが好きなのか、もう一貫してそういう人たちなのだ。
と言っても、自分の価値観や感覚と違ったことをされても、迷惑とまでは思わない。その人が僕にかけてくれた労力を考えると、単純にありがたいと思えるくらいの良識はあるかも知れない。(しかし、それらを保管する良識は無いかも知れない)

そういう人たちの話を聞くと、おばあさまに手紙を書いたり、友人に手紙を書いたり、恋人に手紙を書いたりと、生活の中に文化として根付いていることが多いようだ。
当の僕も、手紙を書いたことはある。研究室で書き置きをして部屋を出ることがあるし、手紙で職員や生徒とやりとりすることが多い。あえてそういう手間をかけることで、教えたことや伝えたことが記憶に定着しやすいように、と考えての策である。

どこからどう見ても手紙など書かなそうな僕に、熱心な手紙を書いてくれる人もいる。そういうのをどう返せば良いのかがわからないので、放置することも多々あった。
その結果、誰かと勝手に付き合っていることになったことがある。僕はその相手の顔も覚えていない。こういう経験を考えると、僕にも彼女がいたことくらいある、と言って良いか。知らぬ間に彼女ができている、なんて言うとホストみたいだが、全くそういう話ではない。

遠くに住んでいる人や、海外の知人から手紙が届くこともある。
高校と大学が偶然にも同じになった同級生、院生だった頃のアメリカ人や中国人留学生、鉄道模型関連で知り合ったイギリス人やドイツ人(たぶんおじさん)、お世話になった先輩や先生方など、意外にもいろいろな人から届く。メールなら光の速度くらい簡単に届くのに、わざわざ手紙とメールの両方を送ってくれる。
メールで書く内容と手紙で書く内容は違っていて、メールの方が事務的な内容が多い。その点、手紙の内容などは口語っぽくて、親しみが感じられる文章であることが多い。手紙を書くという行為は、やはりちょっと特別なのかも知れない。
言うまでもないことだが、僕の方から彼らに手紙を出したことは一度も無い。返すのも遅いし、返さない時さえある。
こんな無礼な人間に付き合っている人たちなのだから、よほど優しいのだろう。だから、できる限りのことはしているつもりだ。
中々会えないところに住んでいる人たちからは、特に手書きの手紙が多い。明らかな錯覚だが、メールよりも心がこもっている感じがあるのだと思う。もちろん、錯覚が悪いわけではない。

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990字
10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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