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山や森でサバイブして学んだこと

知っている人もいるかと思うが、僕は親との関係が希薄だ。希薄というか、無いに等しい。
そのおかげか、家に帰らなくても誰にも怒られなかった。好きなことをしていても、誰にも怒られなかった。彼らの領域を侵害したら、それなりには怒られたけれど。

僕がよく通っていた図書館は、当時夜の8時まで開館していたので、とにかくそこに入り浸った。
当時、日野市というところに住んでいて、ここは都心から少し離れた街である。
青梅市や奥多摩町に近いこともあって、図書館には近隣の山や森についての本が多く置かれてあった。毎日のように図書館に通っていると、いやでも目に付く。

そんな僕だって、この文明社会に生きていて、確かにその恩恵を受けてはいたと思う。
屋根のある家だってあるし、災害の危険や、獰猛な動物に襲われる危険なんて無かった。
妙な菌やウイルスに感染して、病気になるようなことも無い(インフルエンザにすら罹ったことが無い。ワクチンだって打ったことがなかった)。
しかし、それでも比較的、低水準な暮らしを強いられていたので、どちらかと言うと「自然」に近い動物的な生活を送っていたと思う。一動物として趣向を凝らして生活を送らなければならなかったので、それなりに大変だった。

そんな生活なので、自分がどこまでの生活に耐えられるのか、興味があったのかも知れない。
気づけば、山や森、そこでサバイブするにはどのような知識が必要か、などを貪るようにインプットしていた。
どんな動物が生息しているのか、植物が自生しているのか、そこにある物で何ができるのか。そして、何よりどういった条件、状況下で、「生命」というものが損なわれるのか。
特に、人間の人体については、妙に惹かれるものがあった。その生活の中で、自分が「生きている」ということを逆に強く意識できたからかも知れない。
一般的とは言えない環境に生まれると、人間の普遍的な問題について考えるきっかけが多い。
生きるとは、人間とは、愛とは、心とは、生命とは、芸術とは、学問とは、など。少し暴論かも知れないが、そういうメリットがある。少なくとも、そういうことが考えられる自分で良かったな、くらいには思っている。
だから、あまり自分の出生や不遇を否定できない感情もある。まぁ、そう思えること自体、運が良かったのだろう。ここまで来ると本当に皆様に偉そうなことは言えないな、という気が絶賛上昇中だ。

ただ、もう少し一般的な生活を送っていたとしたら、自分の「心、感情」に比重を置く生活になっていただろう。もっと「心」やその在り方を大事にする。そのせいで、生きるか死ぬか、みたいなことを考えることもあるかも知れない。感傷的というか。
でも、悪い環境や出来事の中で生活をしていると、もっと機械的に「どうやって生存するか」みたいな感覚が優先される。より本能的だということ。
虐待やDV、いじめなどの被害を受けている人を見ていて、「なぜ抵抗しないのか?」と異論を唱える人がいるだろう。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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