炎上させるのは、綺麗な方法ではない。しかし、考えるきっかけを与えなければならない社会も、綺麗ではない。

僕自身、過激に聞こえてしまうようなことを考えてる方だから、人のことはどうこう言えない。ただ、自分では「過激」なことを考えているつもりは全くない。
でも、社会にはある程度の基準があるから、それを口に出すか出さないかの選択は、必要だと思う。あまり言いたくないことなどは、誰かが代わりに言ってくれたりすることもある。率先して発言をしてくれる人は、それなりのリスクを背負って発言しているのだろう。本来なら避けたいことだ。
でも、「考えるきっかけが作れたら」という気持ちは、僕にもある。だから、たまに反感を買いそうなことを書いたり、話したりしている。

僕も含めてそうだが、ただ正直に生きているだけで、「過激」だと思われてしまう人は、けっこういる。僕の周りには多い気がしていて、そういう人種が、同じ場所に集まりやすいのかも知れない。
同僚なども社交辞令は言わないし、思ったことや考えたことを正直に意見する。非常に我慢強い人たちだと思うけど、そういう態度でいると周りはどんどん過剰に、無神経になっていく。「意見をしない従順なやつだ」みたいに思われることも多いだろう。
そうすると、ごく稀に「そのように言うべきではない」「それを言ってはおしまいだ」というような発言をしてしまい、顰蹙を買う。僕も同じだが、空気が読めない、ということだろう。いや、「空気を読んではいけないという状況は確かにあると思う。どう考えても生産性のない会議や議論の中で、「正しいこと」を言える人は少ない。敵も作る。働きづらくもなる。
でも、どちらかというとそちらの立場にいたい。僕などは、育ちも悪いし、品性も下劣だから、できるだけ誠実に、反感を買っても「おかしいことはおかしい」と言える生き方をしたい。
動画内ではかなりセーブしているが、いつも動画を撮影する時や配信をする時は、意識しながら話すから、妙に神経を使う。

この原因は何かと考えたことがあるのだが、おそらく僕たちが「理系」と言われる人種で、主に感情を排除した意見を構築するせいだろう。もちろん、感情はある。ただ、できるだけそれを置いておこう、という姿勢だ。
もちろん、誰かを貶めたいとか、そんな感情は一切ない。
感情が悪い、ということではなく、それはただ考え方の問題で、そのように意識しているだけだ。
もちろん、そういう思考が良いとは思わないし、正しいとも思わない。むしろ、社会の中に色々な意見がある、ということ自体に価値があると僕は思っている。だから、時に、「そういう考え方もあるのか」と、常識に風穴を開けるようなムーブメントが、理系界隈から起きることがある。
「過激だ」「非常識だ」と思われるような意見は、この界隈から出ることが多い。理系というと人を分けるようで差別的だから、「論理的」な思考と言ったほうが良いか。

近年、「理系」という言葉が付いた作品や、その手の世界を描いた作品、その手の価値観も、随分と市民権を得ている。ここ2、30年ほどで、この人種に対する理解は、少し進んだ気がする。
今では、テレビをつけても、なんたら大学クイズ王はほとんど理系だし、文系の学生がいても、理系よりの文系分野の学生タレントだったりする。
昔なら「こいつらは、自分の知識や思考を自慢をしたいだけだ」と叩かれていただろうだが、今では高学歴というだけでテレビに出たり、表現活動が成り立つようだ。それだけ、見る人がいるのだから、敬遠する人も減ったのだろう。ただ、学歴が良いからと言って「賢い」と思うのは差別ではある。
あまりに流行っているので、僕はできるだけ「理系、文系」という言葉を使いたくないのだけれど、便利ではあるからどうしても使ってしまう。
でも、それは非常に大雑把な分類の仕方で、理系だからといって心を大事にしないとか、文系だからと言って論理を展開するのが下手とか、そんなことは全くない。考え方なんて、慣れの問題だ。同じ人間だから、どれだけ違っていても、話せば分かり合えると僕は思っている。
「まぁ、大雑把に分けるとそうだよね」くらいの理解に、とどめておいてほしい。

ところで、僕の先生(複数人)なども、講義の余った時間に雑談をされる時、「日本の人口を減らせば、経済的な問題はほとんど解決する。なぜ増やそうとするのか全くわからない」と、よくおっしゃっていた。
少なくとも、民衆の総意とは違う意見を、いつも語っている。大勢を相手にする立場で、その空気には迎合せず、非常識なことばかりを発言する。
僕も、この手の意見についてはこれまでも書いたことがあって、「理屈としては同意している。
その立場を顧みずに発言する人は少ない。その点においても、評価できる姿勢だと思う。

いづれにせよ、こんな話を一般の会社などでしたら、それだけで空気が変わるのではないか。サラリーマンの立場では、口が裂けても大きな声では言えないだろう。
「子供を減らしたら、日本の未来が無くなる。お前は馬鹿か」と言われるだろうし、「子供が欲しいという感情を、蔑ろにするのか」と怒られるだろう。何も、具体的に減らせと言っているわけではない。「こうしたら、こうなるよね」という、ただの意見である。その意見の構造を理解する前に、表現自体に捉われてしまうから、「ただ過激」なだけで、変化も影響も与えられないのだと思う。
日本の人口問題と経済の問題は、本来、子供が欲しい人や、すでに子供がいる人たちが考えなければならないことだと思う。その結果、有権者は、「甘いこと」ばかり言う候補者に投票をする。考えるのではなく、自分たちと、自分たちの時代に得られる目先に利益しか見えていない。みんなで犠牲になって、未来へと繋ごうなんていう気はさらさら無い。だから、「減らすしかない」と考えるのは、とても理性的な意見である。少なくとも、解決できる問題はたくさんある。
とにかく、反対の意見を言うと怒る人が多い。たかが意見で怒っていたら、一体、いつ問題に向き合って考えるのだろう、と不安に思えてならない。

一年ほど前の話だが、生配信で「成田悠輔」のことをどう思いますか、と聞かれたことがあった。僕はその人のことを全く知らなかった。
基本的に、時事や流動的な話題にかなり疎いし、有名な大学の先生のことなどについても無知だから、そういう話題はほとんどわからない。
その後、調べると、東大の院を出て、マサチューセッツ、イエールと、国内ではこれ以上いないだろうと言えるほど、華々しい経歴だった。
経済学者なのか、社会学者なのかはわからないが、「老人は集団自決したらいい」というような発言が、話題になっていた。それを知った時も、「そんなことはもう聞き飽きている」と思うくらいで、何も思わなかった。僕が学生の頃から、先生方はその論理と同じような意見を「常識的な表現」で繰り返していたので、それと同じだと思っただけだ。
この発言自体はけっこう前で、最近、海外でこれを取り上げられて、再度?炎上しているようだ。
僕も、「これに対してどう思うか」という質問を、若者たちから何度か聞かれた。正直に「なんとも思わない」と答えたが、やはり妙な顔をされた。そういうリアクションは欲しいのではない、という期待を裏切ったような感じだ。だから、「人口を増やすよりも、減らす方が良い」という点においては、「同意かな」とだけ言った。
人口を増やす、ということで国家の体裁を守り続けるということなのだろうが、僕はそもそも、国力が下がっていいと思っている。単純な前提の違いである。
もちろん、減らすというのは暴力的な話ではない。子供を作りづらい世の中なら勝手に減っていくわけで、現に、もう日本はずっとそうではないか。今に始まってことではない。
それが、子供を作るという神経も真っ当だが、作れない、作らないというのも真っ当な人間の神経だ。それが自然なのだから、何がおかしいのか全くわからない。

成田氏や、先生方の発言の意図は、「人口は、単に減った方がいい。特に、老人が多い日本では、この層の人口が減れば、経済的な側面においても、政治的な側面においても、好転はする」という論理であって、そこをどう伝えるかの問題である。
それを、「人間に死んで欲しい」と望んでいるのだな、「老人など生きているだけ無駄だ」と言っているのだな、と捉えるのは、感情的だろう。
成田氏の意見は、その表現が明らかに過激だった。つまり、それだけが問題ということだろう。

というよりも、宇宙の視点で言えば、「人間全体」が生きているだけ無駄である。この宇宙にとって、何の価値もない。何も、老人に限ったことではない。あらゆる生命が、そうだ。
人間がいなければ、経済がどうとか、国境がどうとか、資源がどうなんて考えなくて済む。温暖化について考える必要もないし、地球の行く末について気に止む必要も全くない。それこそ、明確な科学的事実だろう。
でも、かと言って、「人間は、今すぐに滅んだらいい」なんてことは思わない。人類がこれからどれだけ知恵を絞っても、どうせ人間はそのうち滅ぶ。
でも、今はまだ世界は存在していて、世界も社会もとても複雑で、正しいことは1つではない。
僕のような一般に「冷めた奴ら」と思われるような人間は、思考に感情を挟まないことで、「ちょっと特殊な意見」を持ってしまうのだと思う。

成田氏やお偉方の先生たちのように、発言に影響がある立場にいて、しかも、社会的に抹殺されるわけでもない立場の場合、ああいった過激に思える発言を「あえてする」という方法はある。
どうかと思う意見もたくさんあるけど、「それを言ってくれてありがとう」というものは、世の中にはたくさんある。誰かが言い出すべきなのに、誰も言えないこと…誰でも心当たりがあるだろう。「いじめはやめろ」といじめっ子に言える人間は少ない。それと同じことだ。でも、そこで争いが生まれて、あるいは闘争があって、犠牲があって、やっと議論が生まれるような問題もある。「これは自分の身に起こっていることなんだ」と気付かされるのだ。

例えば、ある僕の先生は、「親が亡くなった時には悲しくもなかったし、単純に楽になった。でも、犬が死んだことは、今でもずっと悲しい」とよく仰っている。そういう意見は、一般には「その場の空気を変える」ものだと思うけど、そういう感覚が無いのだ。令和でこそ、集団の中でそういう発言をすると、「変な人だ」と思われるだろう。それが、昭和や平成となると、尚更そうだ。それでも、そうやって「おかしな人」として生きてきた人たちなのだろう。
その界隈にいる人たちは、それを聞いても「まぁ、そういう人もいるか」と納得するから、自分達がズレていることにも気づかない。「そんな人種に、良識を求めている方がおかしい」と、僕も思う。それは、成田氏だって同じだ。
彼も研究の世界にいる人(いた人)だと思うけど、そういう人間がメディアに出てくる社会になったせいで、いろいろな混乱を生む。こう言ってはなんだけど、研究を仕事にしようなんて考える自分勝手な人間が、「良識があってまともな人間」なわけがない。
その点においては、大衆が芸術とか、研究みたいなことをやっている人種への理解が、追いついていない現実もあると思う。少なくともテレビに出して面白いような人種ではない。

これは、僕のような素人に毛が生えたような研究者でも同じことで、自分よりも若い人たちに向けて、あえてちょっと難しいことを言ったり、誰かが先陣を切って言うのを避けているような価値観を、あえて表現することはある。
「勉強などして、何の価値があるのか?」と生徒に逆に問いかけて、若者たちが何を考えているのかを知ろうと図ったり、「才能が無いと、研究者になどなれない」と言ってみたりする。もちろん、全て意図があることだ。
それで傷つく人もいるだろうし、不服に思う人もたくさんいるはずだ(僕は、たくさんの若者を指導するような立場ではないが)。
でも、何かを目指すならそれくらいの覚悟は必要だし、傷つく経験は必須である。それでやめるくらいなら、始めからやめた方がいい。

なぜ、そういう物言いを学生にするのかと言えば、もちろん「考えてほしい」からだ。僕は、「優しい」とはこういうことだと、教わってきた。僕など大した立場ではないけど、そういうきっかけを与える立場にいる、という自覚は持っている。少ないが、給料もいただいている。
そして、僕の方に、人々に「共感」を求める感情が無いのと、生徒に「好かれよう」とか、「よく思われよう」という欲求が欠如していることも、理由としてはあるだろう。
だから、嫌われてでも社会のためになる言動をしよう、と考える。それが、優しさの定義だと考えている。
少なくとも、「自分に利益が1つもない」ことをする人には、打算的な思考なんて無いだろう。身銭を切り、捨て身の姿勢を見せる。そうやって、言動の「信憑性」を上げなければ、信用に足る大人にはなれないと教育された。結果的に、本当に嫌われているのは笑えるが…。
でも、僕を嫌おうが、腹が立とうが、それは学生たちの人生であって、僕の人生ではない。「誰が言っているか」ではなく、「何を、どのような意図で言っているか」をしっかりと考えないと、大事な事を見落としてしまうだろう。

だから僕は、皆が右を向いていれば、「左にも色々ありますよ」という刺激を与えなければならないと思うし、皆が同じような感情を持っていたり、価値観が重なっていたりする社会は、非常に危険だと考えている。
同じ方向を向いていたら、誰も向いていない方向から、サタンが近寄ってくるかもしれない。
そのことに警鐘を鳴らすためのパフォーマンスは、時に必要だと思う。
反感を買わないような言動を選択するのか、その辺りは個々の感覚に寄るし、どの層に影響を与えたいかにも寄るだろう。

ただ、成田氏のような「考え方」は(意見のことではない)、理系の世界ではよくあることだ。
これは、「思考実験」と言えば分かりやすいかも知れない。まず、問題があり、単純に解決の方法を思考しようとする試みだ。
これは、「問題を解決しよう」というよりも、「この問題について考えることが大切ですよ」的な、警鐘を鳴らす方向性だ。物事を単純化する、数学で言えば非常に極端だがわかりやすい。
例えば、「この世界から、不幸な人をゼロにしたいんです」と言われれば、最も簡単な回答は、「人類を滅亡させれば良い」や、「その不幸な人間の方を、排除すれば良い」などか。もう少し、そこに心を込めて考えれば、「幸福な人間が、不幸な人に与えれば良い」など。もちろん、それが理想だと僕は思う。
しかし、これらの案はただの「考え方」であって、僕の意見ではない。「考えてみよう」という姿勢である。
そこを、分別して聞かなければ、「この人は、加虐的な人物だ」と誤解されてしまう。そうではない。思考実験、ということだ。

僕も自分で自分のことを、「これは良くないな」と反省することがある。
それは、自分の言動で怒ったり、悲しんだり、傷ついたりする人がいて、そのように「心」を大切にしている人々がいる、という想定が、あまりできないからだ。
そこが、理系的な人種の悪いところだとも言える。「まず、この癌を取り除きましょうよ」と考え、「手術は痛くても我慢してください」という冷たさかもしれない。
もちろん、「そうしなくては取り返しがつきませんよ」という善意だ。
しかし、言い方、接し方、表現で、印象は随分と変わるはずだ。多くの人に理解してもらおうとするならば、そういう配慮が必要だろう。
しかし、これは積極的なサービス精神であり、必ずしもそうしなくてはならない、ということではない。

ある問題に、一石を投じることは良いことだと思うが、あまりに反感を買って無碍に人々を傷つけるのは、本末転倒ではある。
だから、思っていても言わない、という選択をすることの方が多い。
先に話したように、「人口が減った方が良い」という意見を持っている人なら、「出生率を下げる」という言い方をするように、心がける。
「まだ発生もしていない人間のことを言うのは、何の問題もない」という感覚が、どうしてもある。
ただ、驚くべきことに、「子供を作らなくていいなんて、非人道的な!」と怒る人もいる。これは、不思議なことだと思う。
老人はまだ生きているから問題になる。
でも、まだ生まれていない、作られてもいない子供に対しても怒るのだから、もはや何も意見が言えなくなる。空想上の子供を可哀想と思い、それに対して怒っている。誰も、今いる子供の話などしていない。なんて感情的なんだろう、と思わざるを得ない。

そういう意味では、「老人は少しくらい減った方がいい」という意見(その理屈)に全く賛同できない人にとっては、「子供は生まれなくていい」という意見の方が、まだ理解できるかも知れない。(この場合の、減った方がいいは、死ねばいいということではない。誤解しないように)
後期高齢者は、近いうちに寿命で亡くなる。そう決まっている。
そうすれば、単純に人口は減る。これは、ただの自然の摂理、流れだ。
「減ればいい」という意欲的な意味ではなく、「社会でこの層を支えなくても良くなる」という「側面」においては、社会にとって「良いこと」であることは、間違いない。
その辺りを、切り分けて考えられるかどうか。その思考実験なのだ。
まさか、老人を排除するわけがない。そんな候補者は出てこないし、心配しなくても誰もそんな人間に投票をしない。
多人数を前にして講義をしているとわかるのだが、どれだけ「そういう意味ではないですよ」「この点においては、こうですよ」と慎重に分けて説明をしても、

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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