記号化された死と身体
🌙ワンクッション🌙
本記事では人の死について大きく言及しております。
そう言ったことを仄めかすものでは一切ありませんが、一応自己防衛を。
死・人間・身体
死なるものへの疑念と興味が、24時間365日私の思考を支配する。
一応身体を持って生まれてきた生物である以上はお約束、致死率100%。
それが全生物に共通して言えることである。
ただし社会では多くは生死そのものへではなく、「いかに死ぬか/生きるか」「どう生きているか」「どう死んだか」とベクトルを大きくずらして議論されているように思われる。
駅のホームで四六時中流れるアナウンスだ。「黄色い線」からホームの端までは約80〜100cmだという。
して、我々は常に死の1m手前にいる。
電車に巻き込まれて死ぬことを「飛び込み自殺」「人身事故」と言うが、さもホームから線路に飛び降りることで死が完結するかのようだと感じる。
実際そんなものではないはずだ。
コンピュータシュミレーションで「飛び込み」を分析してみると、直接的な死因は大量出血らしい。
身体中に酸素が行き届かなくなり心臓が動かなくなり死に至る。
医学的なことはさておき、人間のそうしたシステマチックな機能と「死」が自分の中でどこか結びつかない、そんな違和感があるのだ。
私は祖父が亡くなった時のことを鮮明に記憶している。
小学2年生の冬、末期癌の祖父に会いに病院へ行った。全身管に繋がれ心電図だか人工呼吸器だかが騒がしく人工音を奏でる中、祖父は死ぬわけがないと思った。
こんなにも設備の整った綺麗な空間で人類の叡智が注ぎ込まれた医療技術を享受しているのであれば、この先何十年でも生き続けられるのではないか。
眠っているのか目を閉じているだけなのかわからないような祖父の姿を見てどこか安心したことを覚えている。
気がつけば静まり返った病室で、ただぼーっと祖父を眺めていた。
そして祖父は深呼吸をするかのように大きく息を吸い、ゆっくりと息を吐き出して死んだ。
心電図が直線を示したからか医師が死亡確認をしたからか知らないが、どうやら祖父は死んだそうだ。
さっきまでと何一つ変わらない姿形でまだ体温が残った身体で、それでもただ一つ「死んだ」という点でもう生きてはいないのだなと認識した。
私には医学的知識は微塵もないが、私の関心はつまり人が死ぬ、心臓が止まるという事実が意外と容易く行われるのだというところにある。
よく何もないところでつまづくが、それがもし駅のホームだったら。
この交差点を1秒遅く飛び出していたら。
持病の薬を2週間でも飲まなかったら。
人間は簡単に死ぬのだな、と当たり前のことながら思う。
そしてそれはテレビの主電源を切るみたいに一瞬で、あ、と思う間もなく死に至るんじゃないのか。
走馬灯は未だ科学的に説明されていないらしい。ドラマで演出されるあの美しいスローモーションの死の瞬間なんて存在しない。
とはいえ、死後の世界をいくら想像したところで我々は何も見られないし感じられない。
死ぬ瞬間の脳波だの電気信号だの科学的に説明できたところで、だ。
人の死は医療や文化や宗教や何やらで説明がつくけれど、本当に死を体感できるのは自分が死ぬ時なのだろう。
…と考えていくと、私がよく抱いてしまう「死にたい」の気持ちはリアルな死を意味していないことがわかる。 電車に飛び込んで死ぬ、病で死ぬ、車に轢かれて死ぬ、老衰で死ぬ
それは具体的な死因に目を瞑り、「死に方」と一様に括ってしまうことで人が人生の幕を閉じる美しさを物語化していると言えるのではないだろうか。
しかし現実は美しくない。
酸素が脳に行き渡らなくなること、列車に肉体を引き裂かれること、免疫が機能しなくなること、こういった身体の不全は到底「死に方」と括れるものではなく、そこにはただ絶望的な苦しみと痛みだけがある。
かつて結核という病が一つの美しさ、ファッションに昇華していったように、現代人である私もまた記号化された死を消費しているのだ。
私の思う「死にたい」は、人生を一回休憩したいという意味合いが強い。
ただし無慈悲にも時間は流れてゆくもので、ひとたび歩みを止めれば「脱落者」という目で見られる。
現代日本の資本主義競争に一度踏み入れた手前、休憩は許されない。
この世界には、0か100しかないのか!?
そんな憤りが、私の「死にたい」の正体であろう。
さて、その「記号化された死」について、以前書いた記事を紹介する。
ここでは宗教や文化などの人々が死にまつわって作り上げてきたものを魅力や希望という言葉で表現した。
3ヶ月経って今思うのは、そうした死の装飾は人間として当然のことじゃないか、ということである。文化を後世に引き継いでいく習性を持つ我々は死を人類全体で共有し、動物が個々で持つ「死は恐ろしいもの」という漠然とした本能的認識を覆すことができるのである。
広島やアウシュビッツなど人の死や苦しみに関連した地を訪れる「ダークツーリズム」ではまさに象徴的な例である。
絶望の中で亡くなっていった被害者を神話化し、平和がいいよね戦争は二度としてはいけないよねといった教訓を作り上げ、次世代を担う者としての責務という形で他人の死を内面化していく過程が如実に現れる。
まあつまり私が言いたかったことは、人の死は自分のターンが来るまでどんなに技術が発展したところで体験できないということ。
そしていくら「死に方」という言葉で装飾したり綺麗に埋葬したところで、人の死は体験できないのだからいくらでも神話化してしまえ、それが人間だ、ということ。
墓石の下の、土の中の、骨壷の中の骨は日常生活でまず見ることはできない。そんな日本の風習を「死へのリアリティが欠陥している」と言う研究者もいる。
いいや、それが人間なんじゃないのか。他人の死を永遠に理解することはできないのであれば、宗教でもなんでも美しく飾りつけてしまうのが楽しい。
こんなことを考える私は極めて性格が悪いのだなあと思う。
性格が悪い人間は社会学に向いていると言われたことがある。やったね!
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