もう一度キラキラした方へと
とある記事を形にするまでの間、自分がこれまで投稿してきた記事をふと見返してみようと思い立った。いつも通り、なぜその行動に移したのかと誰かに問われても、最もらしい答えが出てこないものである。
ちなみに中学生の時に学んでいた数学の授業で「証明」の問題を目の当たりにした時の絶望感は、未だに記憶の片隅に残っている。
当時の私はそれこそ、自ら持つ語彙力は皆無であった。あの難しそうな単語を羅列した文章には何度目を通しても、ロクに日本語を理解できていない思考では到底追いつけないものだった。
「もはやこれ国語に近いテイじゃないか…」と何度嘆いたことだろう。おかげで中間や期末試験に出されてきたその証明問題については、まったく点数を稼ぐことが出来なかったのであった。
それでもって私の学生時代における国語の成績は、大体良くても「中の上」悪くても「中の下」だった。読解力などにおいて人一倍乏しい自分ながら、なんとか健闘していたのではないかと自負してしまう。
そうは言っても先述や過去の記事で綴ったとおり、私は今も誰かと比べて人に何かを伝えるというのが苦手な部類の人間である。
特に最近ではコメントをしたりそれを返したりする時には、色々と考えてしまいがちだ。ありきたりな言葉で返したら、伝えるべきものが伝わらなくなってしまう。かといって深く考え出した言葉を押し出しても、本来の趣旨と大きく食い違ってしまったらそれでこそ本末転倒になりかねない。
ここまで言葉を選ぶのに慎重になってしまったのは、おそらく小学生の時からなのかもしれない。過去に自分が何気なく放った一言で、同級生ないし後輩であったり家族に対して傷つけてしまうことが多々あった。
そのことに対して苛まれることもあり、10代後半ぐらいになると言葉選びに慎重な姿勢になるどころか言葉自体を口にしなくなる、なんてことも少なくはなかった。
それで20代30代と駆け上がってきた今と比べたら、昔より少しはマシにはなったかもしれない。いや、マシになってくれないと、今後も一人の大人として社会人としてやっていくにはかなりキツい。
けれど、どれだけ自分の口から、あるいは文字に換えて放つ言葉に関して研鑽を積み重ねてきたとしても、
やはりどこかで自分は「まとも」じゃないと思ってしまう。
それもふとしたことから「まとも」じゃないとわかっている。
でも今は別に自分のことを「まとも」じゃなくてもいいと考えている。
それは自分を「まともじゃない」と開き直るのではなくて、自分を「まともじゃない」と受け入れたから。
余談になるが、自分にとってスピッツといえば「ロビンソン」「チェリー」「空も飛べるはず」などの名曲よりも、真っ先に「正夢」を選ぶだろう。他の人からすればなんとやらな話になるかもだが、私の中では一番心を動かれた曲である。
「もう一度 キラキラの方へ登っていく」という歌詞につられて、私自身もう一度何かを伝えたくなったのかもしれない。