政治講座ⅴ1122「慰安婦の嘘とライダイハン事件」
「日本を貶める」ために始めた韓国の左派勢力。
「慰安婦の嘘」を真実のように装って拡散させた韓国の左派勢力は日本より優位に立ち、マウントをとることに終始していたが、それ以上の韓国はベトナムで侵したライダイハン事件がある。
自国(韓国)と関係のないベトナム戦争に外貨獲得のために傭兵として参戦して韓国軍の兵士が現地のベトナム女性を強姦したり、ベトナム人を韓国軍は虐殺したのである。
そのような事にはほっかぶりで知らんぷりである。
李栄薫編著「反日種族主義」文藝春秋にも「嘘の国、嘘を付く国民、嘘を付く政治、嘘つきの学問、嘘の裁判」の記載がある。その通りである。レーダー照射事件でも嘘の言い訳に終始。盗んだ仏像をまで返却しない。信用・信頼できない国、それは韓国である。
なお、韓国人の名誉の為に、吾輩も尊敬する韓国人の朴鉄柱氏を巻末で紹介する。
今回はそのような報道記事を紹介する。
皇紀2685年2月2日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
報道記事紹介
「慰安婦の嘘はトランプ氏も冒涜した」韓国の金柄憲氏、米下院の対日非難決議見直し訴え
韓国の市民団体「慰安婦法廃止国民行動」代表の金柄憲(キム・ビョンホン)氏は29日、「韓米日協力関係のためにトランプ政権がすべきこと」と題して産経新聞に寄稿した。「3カ国が慰安婦問題に関する『真実』を共有することが急務だ。偽りから正さなければならない」と強調し、虚偽が指摘される慰安婦証言をもとに2007年6月に米下院で採択された対日非難決議の見直しを訴えた。金柄憲氏は5年以上、ソウルの日本大使館跡地付近に建つ慰安婦像の撤去を求める活動を続けている。
米下院が慰安婦問題で日本政府に謝罪を求めた対日非難決議を採択してから10年を記念する集会で、挨拶するエド・ロイス下院外交委員長(左)。右端はマイク・ホンダ前下院議員=2017年7月27日、米下院議員会館(加納宏幸撮影、肩書は当時)© 産経新聞
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ピンクの韓服姿の女性
17年11月7日、ソウル・青瓦台迎賓館でトランプ大統領夫妻を国賓として招き、文在寅(ムン・ジェイン)大統領主催の晩餐会が開かれた。政財界をはじめ、韓米友好増進に寄与した人士、格別な事情を持った個人など100人余りが集まった。ピンク色の「トゥルマギ」(韓服)を着飾ったいわゆる日本軍慰安婦被害者の李容洙(イ・ヨンス)氏もいた。
晩餐会に先立ち、文在寅氏は李容洙氏と抱擁した後、トランプ氏の方に、さっと背中を押して抱擁を誘導した。演出された2人のぎこちない抱擁には、朴槿恵(パク・クネ)政権が安倍晋三政権と結んだ15年の韓日慰安婦合意を否定し続けた文在寅氏の内心が込められていた。
李容洙氏は1991年に韓日間の慰安婦問題が起きて以降、慰安婦被害者を自任し、日本政府の公式謝罪と法的賠償を要求する運動を繰り広げた象徴的人物だ。
米下院で「日本軍に何か突き刺され…」
2007年には米下院外交委員会の日本軍慰安婦の聴聞会場で「日本の軍人に背中に何かを突き刺さされ、そのまま連れて行かれた」と証言し、慰安婦問題に関する対日非難決議案採択に決定的な役割を果たした。
慰安婦問題のグローバル化に火をつけた、この証言は「噓」だった。
李容洙氏は日本軍に連れて行かれたこともなく、日本軍慰安所で働いたこともない。台湾新竹にある一般売春業で働いた「売春女性」に過ぎなかった。
無理やり連れていかれたのか
李容洙氏は1992年8月15日、韓国のKBS放送で「16歳だったが、十分に着るものもなく食べることもできずにいたが、ある人がワンピース一着と靴一足をくれて『行こう』と言われ、『はい』と言ってついて行った」と証言している。
「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協、現・日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯)が93年に発刊した証言集にも「私たちを連れて行った男が慰安所の主人だった。彼を『オヤジ』と呼んだ」と記載される。
連れて行った人は日本軍ではなく、慰安所の主人すなわち抱え主だったと明らかにしたのだ。
日本政府を相手に提起した慰安婦被害者損害賠償請求訴訟控訴審判決文(2023年11月23日判決)でも、「原告の李容洙氏は1944年頃、日本人について行けば良い服も与えられ、お金を稼ぐことができるという言葉にだまされ、革靴とワンピースを見せて誘引した日本人について行き、台湾新竹にある慰安所に行くことになった」とある。
強制動員された被害者いない
日本軍に強制的に連れて行かれたという米下院での証言は「噓」だったことが明らかになった。李容洙氏は日本軍による被害者ではなく、多くの売春婦の一人に過ぎなかった。
にもかかわらず、文在寅氏は李容洙氏を「日本軍慰安婦被害者」という名分を掲げ、国賓と抱擁するようにした。外交的な欠礼に加え、国賓を冒涜する行為だったのだ。
慰安婦に関する噓は李容洙氏に限らない。韓国女性家族部に登録された240人の慰安婦被害者のうち、日本軍に強制的に動員された被害者は1人もいない。慰安婦は性的サービスを提供して金を稼いだ職業人で、日本軍に強制的に連れて行かれる理由もなく、そのような事例も存在しない。
慰安婦は「国際詐欺劇」
慰安婦問題は、日本で始まった後、韓国で拡大・再生産され、韓国国民をだまし、全世界をだました国際詐欺劇だ。噓が貫かれた「慰安婦」問題は、30年以上にわたり、韓日関係だけでなく、韓米日協力関係の障害となってきた。
トランプ政権2期目の発足に際して、堅固な韓米日協力関係のためには、偽りから正さなければならない。そのためには2007年の米下院での慰安婦決議から見直し、韓米日3カ国が慰安婦問題に関する「真実」を共有することが急務だ。(肩書は当時)
「従軍慰安婦」というフェイク用語をばら撒いた朝日新聞の罪は重い日韓関係はこれでこじれてしまった
「従軍」の有無は、慰安婦問題の重要なポイント
慰安婦問題をめぐり、政府は4月27日、「従軍慰安婦」という用語は誤解を招くおそれがあるとして、政府としては「慰安婦」を用いる、との答弁書を閣議決定した。
答弁書は日本維新の会の馬場伸幸幹事長の質問主意書に答えたものだった。馬場幹事長は、「従軍慰安婦」という用語は、軍により強制連行されたかのようなイメージが染みついており、政府が「従軍慰安婦」という表現を用いるのは不適切としていた。
閣議決定を受け、「従軍慰安婦」という表現を使った教科書が検定に合格していることについて、萩生田光一文部科学相は「教科書会社において、政府の統一的見解を踏まえて、訂正を検討することになる」と述べた。
日本と韓国との間の壁を高くする慰安婦問題において、従軍の有無、つまり強制連行の有無は重要なポイントになっている。
「従軍」を裏付ける資料や証言は存在しない
事実として、これまで強制連行を裏付ける確かな資料や証言は見つかっていない。
韓国の反日勢力は「日本は半島の女性を性の奴隷にしてきた」と主張するが、これはいわゆる反日種族主義にすぎない。文在寅大統領も2015年の日韓合意を否定することで、慰安婦問題を政権維持に利用してきた。
そもそも慰安婦問題は1990年代に「旧日本軍が強制連行していた」との非難が巻き起こったことで、こじれてしまった。その「証言」を最初に掲載したのが朝日新聞(1991年8月11日付、大阪本社発行)だった。
見出しは「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀 重い口開く」「韓国の団体聞き取り」。女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦の1人が初めて証言したという内容だ。
この「証言」は虚偽だった。朝日新聞は2014年にこの記事を含めた従軍慰安婦報道の間違いを認め、記事を取り消している。
朝日新聞社の従軍慰安婦報道に関する第三者委員会の報告を受け、記者会見し頭を下げる渡辺雅隆社長(右)ら=2014年12月26日、東京都港区
1993年8月、慰安婦問題の調査結果を発表した河野洋平官房長官は、「いわゆる従軍慰安婦問題」との表現を使った談話を発表している。菅義偉首相は参院予算委員会で、河野談話について「全体として継承している。見直すことは考えていない」とした。本来であれば、河野談話からも「従軍」を削除すべきだと、沙鴎一歩は考える。
「根拠なく『従軍』を冠した戦後の造語がまかり通っていた」
4月30日付の産経新聞と5月1日付の読売新聞が今回の答弁書の閣議決定を社説に取り上げている。
産経社説の見出しは「『従軍慰安婦』不可 教科書の記述是正を急げ」で、冒頭部分から「根拠なく『従軍』を冠した戦後の造語がまかり通っていたことが問題である。教科書にも使われており、早急な是正を求めたい」「閣議決定の意味を重く受け止めるべきだ」と主張する。
「戦後の造語」でそれが教育の現場で使われていること自体、問題なのである。
産経社説は朝日新聞の誤報と訂正にも容赦なく言及する。
「答弁書では、朝日新聞が、慰安婦狩りをしたなどとする吉田清治氏の虚偽の証言に基づく報道を取り消した経緯に触れ、『従軍慰安婦』は『誤解を招くおそれがある』とした」
吉田氏(故人)の嘘の証言を掲載したことによって慰安婦問題がこじれ、日本と韓国の関係を悪化させた。朝日新聞にはその責任がある。
「強制連行された『性奴隷』などという嘘が世界に広まった」
産経社説は河野談話をこう取り上げる。
「(答弁書は)河野談話での使用について『当時は広く社会一般に用いられている状況にあった』と言い訳しているが、事実を無視した用語にすぎない。これを放置してきたことで、強制連行された『性奴隷』などという嘘が世界に広まった」
同感だ。「言い訳」であり、従軍慰安婦という表記は「事実を無視した用語」である。嘘を世界中に広めた河野談話の責任は重い。
産経社説は「政府は、河野談話を継承するとしている。だが、同談話は、慰安婦の強制連行などを裏付ける証拠のないまま、韓国側に配慮した作文であることが分かっている。談話によって日本の名誉が著しく傷つけられてきた。教科書などへの影響もいまだに続く」と指摘し、最後に「やはり、この談話は撤回が必要である」と主張する。
河野談話が教科書に与えた影響も甚大だ。産経社説はこう指摘している。
「『従軍慰安婦』は河野談話を契機に、9年(1997)度から使用の中学教科書に一斉に登場した。偏向した歴史教科書への批判を受けて一時は消えたが、今春から使用されている中学教科書で復活した。先に検定結果が公表された高校教科書でも使われているが、不適切な表現が検定をパスしていたことにあきれる。当然、修正が必要だ」
沙鴎一歩も教科書の修正を求めたい。早期の訂正が必要だ。間違いを日本の将来を背負う若者たちに教えてはならないからである。
「強制連行があったかのような誤解を招きやすい」
読売社説は「慰安婦表記『従軍』の使用は避けるべきだ」との見出しを掲げ、「『従軍慰安婦』という言葉は、強制連行があったかのような誤解を招きやすい。教科書などで使うことは不適当であり、不使用を徹底したい」と書き出し、こう指摘する。
「今回、政府が答弁書で、『単に〈慰安婦〉という用語を用いることが適切である』との統一見解を示したことは当然である」
私たち国民も「従軍慰安婦」と「慰安婦」の違いについて区別する意識を持ちたい。それが慰安婦問題で一方的に日本を攻撃し、慰安婦像の設置によって強制連行を世界各国に広めようとする韓国の反日運動家を牽制することにつながるからである。
読売社説は指摘する。
「慰安婦の強制連行があったと報じてきた朝日新聞は2014年、吉田氏の証言を虚偽だと認め、過去の記事を取り消した」
朝日新聞の慰安婦報道の過ちは産経社説のみならず、読売社説も言及している。産経社説や読売社説の言及に対し、朝日新聞はどう応じる気なのか。これは社説で正面から取り上げるべきだろう。
河野談話は「問題を複雑にしたと言わざるを得ない」
最近は新聞の社説が互いに論評や反論をすることがない。本来、社説同士のやりとりは、刺激が多く、社説を読む醍醐味だった。各社は読者の期待に応える努力を怠らないでほしい。
読売社説は河野談話について「問題を複雑にしたと言わざるを得ない」と指摘したうえで、こう解説する。
「政府は、戦時中にアジア各国で多くの女性が慰安婦となり、名誉と尊厳を傷つけられたことに対し、おわびと反省を繰り返し表明している。韓国とは政府間の合意に基づき10億円を拠出するなど、問題に真摯に向き合ってきた」
韓国の文在寅大統領は「おわびと反省」の日本の対応を弱腰だと判断したのか、逆手に取るように反日感情を煽ってきた。歪んだ文在寅氏の外交は慰安婦問題ばかりか、徴用工問題にも火をつけた。
沙鴎一歩はそんな文在寅氏に対し、日本に謝罪し、来年5月の任期満了を待たずに大統領の職を辞すべきだと主張してきた。その思いはまったく変わらない。いや変わらないどころか、日増しに増すばかりである。
ウソは明確に否定しなければ、国際社会は理解しない
読売社説は後半でこうも書く。
「政府は近年、河野談話を含め、軍による組織的な強制連行はなかったとする立場を明確にし、国際社会への正しい歴史認識の浸透を図っている。教科書での『従軍慰安婦』の使用は、こうした取り組みを損ねるものだ」
欧米を中心とする国際社会に日本の正しさを理解してもらうことが大切だ。これまで日本は敗戦国の立場上、慰安婦問題などの歴史問題についてストレートに主張することを避けてきたところがある。それが美徳だとの思考もあった。
だが、近年それが誤りであることが明らかになってきた。ノーと言うべきところは明確に否定しなければ、国際社会は理解してくれない。
ましてや慰安婦問題に関しては「国連の委員会では過去に、慰安婦を『日本軍による性奴隷』と決めつける報告書が出されている。慰安婦を象徴する少女像の設置といった韓国系市民団体による反日活動も続いている」(読売社説)。
読売社説は最後にこう主張する。
「事実に基づかない批判をこれ以上拡散させぬよう、政府は対外発信を強化しなければなるまい」
いまの日本政府には、この強い「対外発信」が欠けている。
2018-02-09 朝日新聞社から
慰安婦報道をめぐる裁判の記事を掲載しました
朝日新聞の慰安婦報道をめぐり、三つのグループが起こした集団訴訟は2018年2月、すべて朝日新聞社勝訴の判決が確定しました。17年に判決が確定した二つのグループの訴訟に続き、国内外に住む62人が本社に謝罪広告の掲載などを求めた東京高裁での訴訟も18年2月8日、一審に続いて請求が棄却され、2月22日の期限までに原告側が上告しませんでした。
2月8日の判決内容や、これまでの経緯を報じた記事と表を掲載いたします。
(いずれの訴訟も判決が確定したため、3月19日、見出しと前文を更新しました。以下の記事は2月9日付の朝刊掲載)
●慰安婦めぐる訴訟、二審も朝日新聞勝訴 東京高裁
朝日新聞の慰安婦に関する報道で誤った事実が世界に広まり名誉を傷つけられたなどとして、国内外に住む62人が朝日新聞社に謝罪広告の掲載などを求めた訴訟の控訴審判決が8日、東京高裁であった。阿部潤裁判長は請求を棄却した一審・東京地裁判決を支持し、原告側の控訴を棄却した。
訴えの対象とされたのは、慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言に関する記事など。米国グレンデール市近郊に住む原告らは「同市などに慰安婦像が設置され、嫌がらせを受けるなど、市民生活での損害を受けた」として、1人当たり100万円の損害賠償も求めていた。
高裁判決はまず、一審判決を踏襲し、「記事の対象は旧日本軍や政府で、原告らではない」として名誉毀損(きそん)の成立を否定した。
原告側は、記事により「日本人が20万人以上の朝鮮人女性を強制連行し、性奴隷として酷使したという風評」を米国の多くの人が信じたため、被害を受けたとも訴えていた。
高裁判決はこの点について、「記事が、この風聞を形成した主要な役割を果たしたと認めるには十分ではない」と指摘。さらに、「読者の受け止めは個人の考えや思想信条が大きく影響する」などと述べ、被害と記事の因果関係を否定した。
一審の原告は2557人だったが、このうち62人が控訴していた。朝日新聞の慰安婦報道を巡っては、他に二つのグループも訴訟を起こしていたが、いずれも請求を棄却する判決が確定している。
原告側は判決後に会見し、代理人弁護士は「大変残念だ。上告するか検討する」と話した。
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朝日新聞社広報部の話 弊社の主張が全面的に認められたと考えています。
●国際的影響「主な役割」否定
今回の裁判の争点の一つは、朝日新聞の慰安婦報道が国際的に影響を及ぼしたかどうかだった。「主要な役割を果たしたと認めるには十分ではない」と高裁判決は認定した。
朝日新聞社が委嘱した第三者委員会は2014年12月の報告書で「国際社会に対してあまり影響がなかった」「大きな影響を及ぼした証拠も決定的ではない」とする委員の意見を紹介。韓国への影響については見解が分かれ、「韓国の慰安婦問題批判を過激化させた」「韓国メディアに大きな影響を及ぼしたとはいえない」と両論を併記した。
16年2月の国連女子差別撤廃委員会で外務省の杉山晋輔外務審議官(当時)は、慰安婦を狩り出したと述べた吉田清治氏について「虚偽の事実を捏造(ねつぞう)して発表した」と説明。「朝日新聞により事実であるかのように大きく報道され、日本、韓国の世論のみならず国際社会にも大きな影響を与えた」と述べた。これに対し朝日新聞社は「根拠を示さない発言で、遺憾だ」と外務省に申し入れた。
今回の訴訟で原告側は、杉山氏の発言を証拠として提出。8日の東京高裁判決では「朝日報道が慰安婦問題に関する国際社会の認識に影響を与えたとする見解がある」とした昨年4月の東京地裁判決を引用しつつ、吉田氏の証言(吉田証言)について「国際世論にどう影響を及ぼしたかについては原告らと異なる見方がある」と述べた。
原告側はまた、慰安婦問題を報じた朝日新聞の記事が、1996年に国連人権委員会特別報告者クマラスワミ氏が提出した「クマラスワミ報告」に影響を与えたとも主張。この報告は慰安婦問題について、法的責任を認め被害者に補償するよう日本政府に勧告していた。
高裁判決は一審判決を踏まえ、「クマラスワミ報告は吉田証言を唯一の根拠としておらず、元慰安婦からの聞き取り調査をも根拠としている」と指摘。慰安婦問題をめぐり日本政府に謝罪を求めた07年の米下院決議についても、「説明資料に吉田氏の著書は用いられていない」とした。
さらに、朝日新聞の報道が韓国に影響したとの原告側の主張に対しては、高裁判決は「韓国では46年ごろから慰安婦についての報道がされていた」と認定した。
●慰安婦問題を巡る朝日新聞社報道の経緯
朝日新聞は2014年8月5、6日、慰安婦問題をめぐる自社報道の検証特集を掲載。「女性を狩り出した」などの吉田清治氏の証言(吉田証言)は「虚偽だった」として記事を取り消すなどした。「慰安婦」と「挺身(ていしん)隊」を混同した記事があったとも述べた。
朝日新聞社が委嘱した第三者委員会は14年12月の報告書で、吉田証言の報道について「研究者に疑問を提起された1992年以降も、取り扱いを減らす消極的対応に終始した」と指摘。朝日新聞社は「吉田証言記事などの誤りを長年放置したことを改めておわびします」と紙面で謝罪した。
その際、「原点に立ち戻り、慰安婦問題の証言や国内外の研究成果などを丹念に当たります」と約束したのを受け、朝日新聞は14年暮れから、慰安婦問題を考える一連の特集記事を掲載してきた。日本軍で慰安所が設けられた経緯を軍や警察の公文書で検証し、慰安婦碑・像の設置をめぐる米国の論争を特集。韓国で慰安婦と「挺身隊」が混同された経緯をたどり、韓国人元慰安婦の足跡を証言や資料で追った。植民地支配下の朝鮮半島での慰安婦の動員や、戦犯裁判における性暴力の扱いについても、裁判資料や研究者の解説をもとに詳しく紹介した。
●これまでの訴訟の経緯
朝日新聞の慰安婦報道をめぐっては、今回の訴訟を含めて三つのグループが朝日新聞社を相手取り集団訴訟を起こした。うち二つの訴訟は原告側の請求を棄却する判決が確定している。
2015年1月に渡部昇一・上智大名誉教授(故人)らが提訴した訴訟では、原告約2万5千人が「慰安婦に関する虚報で、国民の名誉が傷つけられた」として謝罪広告や慰謝料を求めた。東京地裁は16年7月に原告側の請求を棄却。東京高裁も17年9月の判決で原告側の控訴を棄却し、原告側が上告せず確定した。
15年2月には東京都や山梨県の住民ら約480人が「読者や国民の知る権利が侵害された」として損害賠償を求めて提訴。東京地裁は16年9月、東京高裁は17年3月の判決でいずれも原告側請求を棄却し、最高裁が17年10月に上告を退けて判決が確定した。16年8月にはほぼ同内容の訴状で150人が甲府地裁に提訴したが、17年11月の判決で原告側請求が棄却され、原告側が控訴せず確定した。
今回、東京高裁で判決が出た訴訟は15年2月提訴。米国や日本に住む約2500人が一審の原告となった。東京地裁は17年4月の判決で原告側請求を棄却し、原告側が控訴していた。
朝日新聞の慰安婦報道をめぐる訴訟に対する裁判所の判断
《2015年1月提訴》
原告 一審は国会議員や大学教員ら2万5722人、二審56人原告側主張 ・朝日新聞の虚報記事で日本及び日本国民の国際的評価は低下、国民的人格権・名誉権は著しく毀損された東京地裁判決《原告の請求を棄却》
・記事は旧日本軍や政府に対する報道や論評。原告に対する名誉毀損には当たらない
・報道機関に真実の報道を求める権利があるとか、報道機関が訂正義務を負うと解することはできない東京高裁判決《原告の控訴を棄却》
・記事は旧日本軍や政府を批判する内容。原告の名誉を侵害したとはいえない
・知る権利を根拠に誤った報道の訂正を求める権利を有するとは解されない
《原告が上告せず確定》
《15年2月提訴》
原告 東京地裁の一審は482人、二審238人、上告28人。甲府地裁でも16年8月、ほぼ同内容で150人が提訴原告側主張 ・吉田証言に疑義が生じていたのに、朝日は報道内容の正確性を検証する義務を怠り、読者や国民の『知る権利』を侵害した東京地裁判決《原告の請求を棄却》
・新聞社の報道内容は、表現の自由の保障のもと、新聞社の自律的判断にゆだねられている
・一般国民の知る権利の侵害を理由にした損害賠償請求は、たやすく認められない
《甲府地裁も原告の請求を棄却、原告が控訴せず、確定》東京高裁判決《原告の控訴を棄却》
・記事への疑義を検証し報道することは倫理規範となり得るが、これを怠ると違法行為というには無理がある
《原告は上告したが、最高裁が退け、確定》
《15年2月提訴》
原告 一審は在米日本人ら国内外の2557人、二審62人原告側主張 ・朝日の誤報や、訂正義務を尽くさないことで、誤った事実が世界に広まり、国連勧告や慰安婦碑・像として定着、多くの日本人が名誉を侵害された東京地裁判決《原告の請求を棄却》
・記事の対象は旧日本軍や政府で、原告ら特定個人ではない。原告ら個々人の国際社会から受ける社会的評価が低下したとの評価は困難
・原告が受けた嫌がらせなどの責任が記事掲載の結果とは評価できない
・記事が、国際社会に対し、何らの事実上の影響も与えなかったとはいえない。しかし、慰安婦問題には多様な認識や見解が存在し、いかなる要因がどの程度影響したか特定は困難
・「クマラスワミ報告」における強制連行に関する記述は吉田証言が唯一の根拠ではなく、元慰安婦からの聞き取り調査も根拠。クマラスワミ氏自身、「朝日が吉田証言記事を取り消したとしても報告を修正する必要はない」との認識を示している
・米下院決議案の説明資料に吉田氏の著書は用いられていない
・韓国において「日本軍による慰安婦の強制連行」は1946年から報じられ、45年ころから60年代前半までは「挺身隊の名のもとに連行されて慰安婦にされた」と報道されていたこと、「慰安婦数20万人」についても70年には報道されていたと認められる東京高裁判決《原告の控訴を棄却》
・報道内容は当時の日本軍や政府に関するもの。原告の名誉が毀損されたとは認められない
・吉田証言が慰安婦問題に係る国際世論に対してどのような影響を及ぼしたのかについては、原告らとは異なる見方がある
・クマラスワミ報告は、吉田証言を唯一の根拠とはしておらず、元慰安婦からの聞き取り調査等も根拠▽米国下院決議案の説明資料には吉田氏の著書は用いられていない▽米国各地で韓国系住民が慰安婦の碑等の設置を各方面に働きかける運動を展開▽韓国ではすでに昭和21(1946)年ころから慰安婦について報道されていた ―― ことから、記事が(慰安婦)20万人・強制連行・性奴隷説の風聞形成に主要な役割を果たしたと認めるには十分ではない
・記事と在米原告らの被害との間の因果関係を認めることはできない
《原告が上告せず確定》
吉田氏の虚偽証言、初掲載は昭和57年 朝日「信頼される新聞になることで責任を果たす」
朝日慰安婦報道取り消し10年
2024/8/4 19:41
朝日新聞は平成26年8月5日付と6日付朝刊で「慰安婦問題を考える」と題した特集記事を掲載し、同紙の慰安婦報道を検証した。5日付では、韓国で女性を慰安婦にするため強制連行したと証言してきた吉田清治氏(故人)について「確認できただけで16回、記事にした」と明らかにし、吉田氏の証言は「虚偽だと判断」したとして16本の記事を取り消した(同年12月に2本追加)。
当初は謝罪せず
朝日が女性を強制連行したとする吉田氏の話を初めて掲載したのは昭和57年9月2日付の大阪本社版朝刊。吉田氏の大阪市内での講演内容として、「(昭和)18年の初夏の一週間に済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」などと伝えた。
韓国で女性を強制連行したとする吉田氏の証言には早くから疑問が呈されていた。現代史家の秦郁彦氏が平成4年3月、済州島で現地調査を実施すると、地元のジャーナリストや古老らはそろって吉田証言を否定した。産経新聞は秦氏の調査結果を4年4月30日付朝刊で伝えた。
朝日は吉田証言について、秦氏の調査から約22年後にようやく虚偽と判断し、記事を取り消したが、その間、吉田証言は韓国政府が1992年(平成4年)7月に発表した「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」や国連人権委員会(当時)に提出された報告書で強制連行の根拠とされた。
朝日は平成26年8月5日付紙面では謝罪をせず、記事を放置した間に吉田証言が世界に広まった責任についても認めなかった。
ジャーナリストの池上彰氏は当時、朝日に連載していたコラムで「過ちを訂正するなら、謝罪もするべきではないか」と記したが、朝日がこのコラムの掲載を一時見送ったことも明らかになった。
三者委「報道機関として役割欠いた」
朝日が立ち上げた慰安婦報道を検証する第三者委員会は26年12月に公表した報告書で、朝日が当初、謝罪しなかったことについて「反対世論や朝日新聞に対する他紙の論調を意識する余り、これのみを相手とし、報道機関としての役割や一般読者に向かい合うという視点を欠いたもので、新聞のとるべきものではない」と批判した。検証記事については「朝日新聞の自己弁護の姿勢が目立ち、謙虚な反省の態度も示されず、何を言わんとするのか分かりにくいものとなった」と指摘した。
朝日の慰安婦報道が国際社会に与えた影響に関しては、第三者委員会の複数の委員が「韓国における慰安婦問題に対する過激な言説を、朝日新聞その他の日本メディアはいわばエンドース(裏書き)してきた。その中で指導的な位置にあったのが朝日新聞である。それは、韓国における過激な慰安婦問題批判に弾みをつけ、さらに過激化させた」と指摘した。
政府「国際社会に大きな影響」
政府は、吉田証言について「大手の新聞社の一つである朝日新聞により、事実であるかのように大きく報道され、日本、韓国の世論のみならず、国際社会にも、大きな影響を与えた」としている。
このほか朝日は26年8月5日付紙面で、「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」(平成4年1月11日付朝刊の用語説明メモ)などと、軍需工場などで勤労する女子挺身隊と慰安婦を混同していたことも紹介した。「当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました」と釈明した。
産経新聞は朝日新聞社に対し、10年前の吉田氏の関連記事取消しについて現在、どのように考え、どのように位置づけているかを質問した。同社広報部は「当時、紙面や当社のサイトでお知らせした見解や位置づけと変わってはおりません。2014年12月に公表した慰安婦報道を検証する第三者委員会の指摘と提言を踏まえ、日々の取材と報道に取り組んで参ります。信頼される新聞になることで、責任を果たしていきたいと考えております」と回答した。(原川貴郎)
ライダイハンとは
ベトナム戦争に参戦した韓国軍の兵士や南ベトナムに出稼ぎに行った韓国人労働者らと、現地のベトナム人女性との間に生まれた混血児を指す言葉である。また彼らは父親からの扶養義務を果たされずベトナムに置き去りにされた。
ライ「𤳆」(𤳆=「男」偏に「來」旁はベトナム語で「混血」を意味し、ダイハンは「大韓」(朝:대한)のベトナム語読みであるが、「ライダイハン」という語そのものがベトナムの公式文書に現れる例は少ない[2]。韓国では、ベトナム語からの借用語として取り入れられ、「ライタイハン」(朝:라이따이한)のように発音される。なお、韓国系ベトナム人(한국계 월남인 / 韓國系越南人)と呼ばれることもある。
ライダイハンの数
ライダイハンの正確な数は、依然として、はっきりとは分かっていない。最小5千人から最大3万人(『釜山日報』2004年9月18日)など諸説ある。
韓国政府およびベトナム政府による調査が行われないまま、長期間、問題が放置されてきたことにより、被害者数の正確な把握が困難になったという批判もある。
ライダイハンの現状
敵国の子供としてベトナム社会から差別を受け、貧困に苦しんだ。
ライダイハンの母は戦後敵国に通じていたと財産の没収、投獄、思想教育など弾圧された。
彼ら彼女らの中には父親の記憶を持たず、朝鮮語も話せず、写真だけが唯一残された思い出という者もいる。韓国との混血児は名乗りでないとの主張もある。
一部のライダイハンは、韓国で労働者として働きながら父親を探している。ライダイハンの父親捜しは容易ではなく、父親が判明した場合でも、親子として認められた例はほとんど無い。
日本は〝心〟という字に見える ─ 日韓永遠の架け橋たらんとした悲劇の知日家・朴鉄柱会長 ─
戦後ソウルに設立した「日本文化研究所
(高千穂商科大学教授) 名越二荒之助
恒久的な日韓友好を考えるうえで、避けて通ることのできない人物がおります。それは朴鐵柱という一人の韓国人です。彼は大正十一年(一九二二)、釜山市の東?(トーライ)に生まれ、大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業。卒業後は釜山の龍頭山神社や、新羅時代から関係の深い下関の住吉神社(長門一宮、元官幣中社)に奉職しました。彼は学生時代から古事記・日本書記を通して、日本の成り立ちと天皇朝の存在に深い関心を寄せ、その尊貴性に目覚めていました。だから彼としては、神社に奉職することに何のためらいもありませんでした。
終戦後は韓国に帰りましたが、李承晩大統領の反日政権下にあって苦汁を嘗めさせられました。日本の学校を出た者は、「民族反逆者裁判条例」にひっかかって追放の憂目を見ました。やがて朝鮮動乱が勃発。その荒波をくぐって生きのび、動乱が終るとソウルに出て、昭和二十九年五月には、「日本文化研究所」(ソウル特別市中区奨忠洞二街一九七)」を設立しました。「社団法人・日本文化研究所」の「内容書」は、韓日両国語によって書かれており、「趣意書」の冒頭は次のような書き出しで始まります。「日韓両民族は、各自悠久なる伝統と文化を護持してき、上古よりの密接なる文化的相互交流は、両民族の芸術、風俗、道義観にまで相似共通のものを形成してきたのであります。特に一衣帯水の地理的条件は、お互の全歴史を通じて政治的、経済的、協助を不可避にし、文化的、精神的にも緊密にして不可分離なる関係を確立してきたのであります。」「趣意書」は大局観に立って、悠久の日韓のあり方を踏えたものです。しかしながら両国の間に、文禄・慶長の役のような「互恵扶助の原理に違背したとき」があった。それは「久遠なる歴史に於てひとつの瞬間的な疾患であり、両国の健全な将来と恒久友和のための契機」にしなければならないとして、研究主題を次の三つに置いております。
一、日本上代文化の研究
二、帰化文化の研究
三、日本の信仰、道徳等精神文化の研究
韓国で朴氏が「日本文化研究所」を設立した昭和三十年頃の日本は、敗戦のショックから醒めやらず、自国文化を否定し、罵倒する言論がまかり通っていました。
その頃韓国で、日本の精神伝統と国体研究の運動が起ったことは、文字通り驚嘆すべきことでした。もし当時から日本に、日本人の手によって「韓国文化研究所」を設立し、
一、韓国上代文化の研究
二、帰化文化の研究
三、韓国の信仰、道徳等精神文化の研究を研究テーマとしていたらと思うのです。
そして韓国の「日本文化研究所」と日本の「韓国文化研究所」が相互に研究交流を重ねていたら、日韓関係はいかに好転したことでしょうか。
まぼろしの遺著『日本と韓国』
この研究所は二階建でアパート風の「学生会館」を持っていました。会館には常時二十五名から三十名が共同生活をしながら、朴所長の講義を中心に勉学に助みました。日本語の勉強をはじめ、研究の中心テーマは、「日本の国体と歴史の究明、そして恒久的な日韓関係のあり方の探求」でした。塾生の心構えを、「学究修身、忍苦鍛練、弘道先駆」の三ケ条に置き、会員はソウルだけで千二百名に達しました。
朴所長は一方で『日本と韓国』と題する二八〇頁の著書(韓国語)を刊行しました。この本の題名は、『韓国と日本』ではなく、『日本と韓国』となっているように、全体の三分の二が日本に言及しており、日韓の恒久的安定を説いたものです。即ち
という主題をもったものでした。反日感情渦巻く韓国で、このような運動を展開したことは、何度もいうようですが、奇蹟にも等しいことでした。案に違わずこれが「反共法」にひっかかり、朴氏は裁判にかけられました。その結果著書は全部没収・焼却され、三年半の刑を言い渡され、「日本文化研究所」も解散のやむなきに到りました。
私が晩年の朴氏に会った時、当時発刊した『日本と韓国』を是非読ませてほしいと懇願しました。朴氏は「自分の手もとには一冊もない。しかし今も一人だけ持っている人がいるはずだから、捜して送る」ということでした。しかし遂に発見できなかったのか、「日本文化研究所・内容書」だけが送られてきました。別掲しているので、是非参照してほしいと思います。
日本人必読の名講演
朴氏は三年半の刑期を終えて釈放されてからも、「国家安全企画室(KCIA)」からの査察を受け、何回か投獄の憂目を見ましたそれでも初一念を曲げず「日本文化研究所」は名称を「韓日文化研究協会」と改め、細々と続けていました。資金なく、生活は文字通り赤貧洗うがごとき状態でした。
昭和四十一年、日韓基本条約が締結され、国交が樹立されました。昭和四十二年十月、私は「社団法人・国民文化研究会(小田村寅二郎理事長)」から派遣されて、学生たち七人(九大、長崎大、早大、上智大学等)と訪韓しました。韓国では、ソウル大、梨花女子大、高麗大、慶北大、そして中・高校では京畿、城南の学校訪問を行い、どこに行っても教師・学生を混えて懇談会を持ちました。当時反日感情の根強さは予想を超えるものがあり、豊臣秀吉・加藤清正の「朝鮮征伐」と「日帝三十六年に及ぶ侵略」を攻撃してきました。それに対して我々は「謝罪」をせず、当時置かれた極東アジアの状況を語り、反日的怨念だけでは健全なる愛国心は育たないことを強調しました。そういう「たたかい」のさ中の十一月一日、我々は朴鉄柱氏主宰の「韓日文化研究協会」を訪ねたのです。
その協会の建物は荒廃して目を当てられぬくらいでした。朴会長は荒れ果てた建物を指差しながら、「これで松下村塾なみになりましたとカラカラと笑いました。朴氏は吉田松蔭のような生き方をもって、日韓永遠の架け橋たらんとしていたのです。私たちが来るというので、朴氏の弟子数人も集まっていました。朴先生と弟子たちの目は爛々と輝き、底知れぬ迫力を感じました。対座していると、反日砂漠の中でオアシスに出会ったような安らぎを覚えました。
朴会長は我々の訪問を待ちかねたように、語り始めました。それは堰を切った急流のように溢れ出て、とどまることを知らず、三時間がアッという間に過ぎました。
私の反論とエール交換
豊かな語彙を駆使した熱誠あふれる朴会長の雄弁は、日本人必聴の名講演でした。朴氏は当時四十五歳。油の乗りきった頃の、文字通りいのちのほとばしりともいうべき流露でした。今もその時の一語一語が鮮やかに甦ってきます。それに対して私は日本側団長として何か應えなければなりません。私は実は朴氏の名調子を聞きながら、一方では何か空しいものを感じていたのです。朴氏は韓国人ではないか。韓国人なら韓国人らしく韓国の誇りを語るべきではないか。日本人以上の日本讃美をやられるのはおかしいではないか。私もあの時四十四歳。韓国ではどこでも論戦をやってきたので、その癖が頭をもたげたのです。私は次のように「反撃」しました。
私は朴氏程の迫力はなかったが、このように「逆襲」したのです。韓国民の朴氏は日本讃美をやり、日本国民の私は韓国讃美をやった訳です。このような相互のエールの交換によって、私は朴氏と深い友情に結ばれるようになったのでした。
初心に生きた晩年の朴氏
その後朴氏は半身不随の大病にかかり、会うこともできなくなりました。しかし氏は長い闘病の末漸く回復して来日しました。それは十数年後の再会でした。しかしその時、朴氏には昔日の迫力は失せていました。ギラギラと磨ぎすましたような切れ味も、シャープな語り口もどこへ行ったのか。昭和四十二年に会った四十五歳の時の朴鉄柱氏の印象が余りに強烈であったために、挨拶を交
しながら、我が目と耳を疑った程でした。
氏はその後次第に健康をとり戻しましたが、昔日の「朴鉄柱」ではありませんでした。氏は玄洋商事株式会社の代表理事(取締役社長)として新事業にとり組始めました。度々来日するようになり、その都度私は彼の宿舎を訪ねました。事業の内容についてはお互に触れたことがありませんが、一度だけ私の方から、「武士の商法がうまくいっていますか」と聞いてみたことがあります。それに対して「やりたくてやっているんじゃありません。決して初心は忘れてはいません。日韓の架け橋となる運動を展開するために、先立つものを用意しなければ…」と答えるだけでした。
その間私は朴氏に、何度か著書の刊行をすすめました。朴氏もそれを考えており、目下執筆中でもある、とのことでした。翻訳の事を質ねると、「自分はいつも日本語で発表しているし、韓国語より日本語の方が書きやすいので、日本語で書く」と、もらしていました。
テーマは二つあって、一つは明治の頃の『日韓併合史』、もう一つは『満洲事変後の日韓関係史』の二本立で行きたい、としてその梗概を聞きました。私は聞きながら、これができれば「日本を犯罪国家に見たてた『日帝三十六年史』がひっくり返るのではないか。日韓友好の原点を示す名著として、古典的価値を持つに違いない」私は何度かこの点を力説して激励しました。癌に侵されてからも来日されたので、「朴鉄柱の名を不滅たらしめる著書」の執筆を懇願しました。それが病気を超える活力になると思って、東京から電話で激励したこともあります。
しかし癌と戦いながらの執筆、それに資料の不足もあり、事業の後始末にも追はれ、遂に完成を見ないままに他界されてしまいました。御本人の無念を思えば、想像を絶するものがあります。今は前述した『日本と韓国』と共に、「まぼろしの名著」として語るよりほかなく、何としても残念の一語につきます。
考えてみれば、日本人以上に日本を知り、日本を愛し、永遠の日韓友好の道を説き、中途にして戦い倒れた朴鉄柱氏の生涯でした。このたび「日本の戦友」として忘れてならない悲劇の韓国人を追悼し、記録に留めるべく、文集出版の運びとなったのです。
出版のために一念発起された伊藤行宏、野村健、京田葦男の三氏に心から敬意を表しっつ、最後に晩年に語られた朴氏の言葉を思いだすままに紹介して筆を擱きます。
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