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政治(防衛・経済・金融)講座ⅴ589「防衛費捻出の提言と防衛費は先行投資」

 時代を遡って日本の防衛の歴史を俯瞰して見よう。

      皇紀2682年11月14日
      さいたま市桜区
      政治研究者 田村 司

何故、日本は欧米列強の植民地支配を受けなかったのか。


それは、ある時点までは極東に位置して、地政学上、注目に値しない国と思われていたのではなく、古来から日本は軍事国家であった。
軍事費は領地からの租税(年貢)以外に侵攻した支配地が領地となり税収が増えることを当てにしていた。負けた大名は貧乏暮らしの低い地位に落とされた。この様にしのぎを削って領地を守る軍事大国であった。その歴史事実を俯瞰すると、天皇を中心とする国家に於いて、征夷大将軍坂上田村麻呂(797年)などのまとまりをも見せた。鎌倉幕府の征夷大将軍源頼朝(1192年)、室町幕府の征夷大将軍足利尊氏(1338年)、江戸幕府は征夷大将軍徳川家康(1603年)、このような日本国の国家体制は宣教師などにより日本の武家集団の怖さが報告されていた。

西欧の大航海時代の契機となったのはマルコ・ポーロの「元」での見聞であろう。

支那の王朝「元」に来たマルコ・ポーロ東方旅行の『東方見聞録」で日本は黄金の国であると紹介されている。1271年にマルコは、父ニコロと叔父マッフェオに同伴する形で旅行へ出発した。ペルシャからパミール高原、ゴビ砂漠を越え、1275年に上都でフビライ・ハンに拝謁。ハンに重用され、元の各地に使節として派遣されるなど見聞を深めることとなる。そして1292年に船で泉州を発ち、セイロン、アラビア海をへて、1295年に3人でヴェネツィアに戻るという、実に四半世紀にわたる大旅行となった。1295年に始まったピサとジェノヴァ共和国との戦いのうち、1298年のメロリアの戦いで捕虜となったルスティケロと同じ牢獄にいた縁で知り合い、この書を口述したという。
 マルコポーロによる啓蒙により、1492年にコロンブス、北米到着(第1回探索)することになる。
 
日本には1543年ポルトガル人種子島に漂流、1549年ザビエル、キリストを伝来。1584年スペインの商船、平戸に来航。1609年、オランダ、平戸に商館を設置。1623年、イギリス人平戸の商館を閉鎖。オランダ人を出島に移す。
海路はインド⇒支那⇒極東・日本である。

それからにほんでは、暫くしてから、大政奉還後も明治(1868年)維新以来富国強兵政策をすすめる。軍事大国として突き進む。
しかし、もうこの時は世界の潮流(大航海時代)から400年も遅れていた

黄金の国ジパング

日本では、ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」(Cipangu) として紹介したという点で特によく知られている。しかし、実際はマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話として収録されている。
東方見聞録によると、「ジパングは、カタイ(中国北部)(書籍によっては、マンジ(中国南部)と書かれているものもある)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。また、ジパングには、偶像を崇拝する者(仏教徒)と、そうでない者とがおり、外見がよいこと、また、礼儀正しく穏やかであること、葬儀は火葬か土葬であり、火葬の際には死者の口の中に真珠を置いて弔う習慣がある。」といった記述がある。「莫大な金を産出し」というのは、遣隋使以降日本の中国使節はその滞在費用として砂金を持ってきたこと、「宮殿や民家は黄金でできている」というのは中尊寺金色堂の様子が誇張されて中国に伝わったこと等を核に日本の黄金伝説が形成されたのではないかという仮説も提示されている。
東北の平泉の奥州藤原三代が栄えた時代と符合する。きらびやかな金色堂をご覧あれ!

金色堂

方言として残る「蒙古襲来」

当時の仏教は宗教という側面と先端技術(建築・工芸・学問)を持っていたので寺院を建築誘致すると職人(技術者)・僧侶(学問)などが全国に住み、読み書き算盤などの知的水準の向上に貢献したのである。日本全国の不便なところにも寺院建築があり、識字力が高く、教養がある理由であると考えるのである。そして、その事例として、口伝えで伝承される物語もある(遠野物語)。そして、その当時から方言として残っている「あもうこくる」と言う言葉がある。なまっているので聞きずらいが、次のように文章にして、当時の歴史的事実と重ね合わせると意味がわかる。
それは「あ!蒙古がくる」となる。つまり、蒙古襲来という歴史的事実が方言として伝承されているのである。
今では、わがままな子供を黙らせる恐怖の対象にしたのである。「お化け(幽霊)が来る」「鬼が来る」ではなく、「蒙古が来る」を恐怖の対象にしたのである。
つまり、鎌倉幕府の北条家の執権政治のときに2度の蒙古襲来を打ち負かしているが、そのときの戦いが熾烈を極めたことは奥州まで伝わっているのである。
多分、その平泉の中尊寺の金色堂の情報が支那の「元」に伝わっていて、マルコ・ポーロにも中尊寺の金色堂などの情報が伝わり、東方見聞録の調査・情報収集のために宣教師が来ていたものと思われる。
 だから、宣教師が来ている間はしばらく欧米の圧力はなかったが、1852年アメリカ使節ペリー浦賀に来航し、翌年、日米和親条約締結となるのである。
さて、マルコ・ポーロに触発されて、西回りで「黄金の国(日本)」を目指したのである。それが1492年にコロンブス、北米到着(第1回探索)となるのである。(実は日本は世界有数の銀の産出国であった。)
そこで、西回りと正反対にインドを経由して支那の地を目指した宗教集団がいた。日本でのキリスト教布教は、1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸に始まるとされる。何故、宣教師が鉄砲を持って伝来に来たのかが不思議であったが次の記事で納得。

外国の記録と年代の整合性

一方、アントニオ・ガルヴァオ(英語版)の著した『新旧世界発見記(葡: 』には、『鉄炮記』の記述の前年にあたる1542年に、フランシスコとダ・モッタが日本に漂着したと書かれている。

No anno de 1542 achandose Diogo de freytas no Reyno de Syam na cidade Dodra capitam de hũ nauio, lhe fogiram tres Portugueses em hũ junco q' hia pera a China, chamauãse Antonio da mota, Francisco zeimoto, & Antonio pexoto. Hindo se caminho p'a tomar porto na cidade de Liampo, q' está em trinta & tãtos graos daltura, lhe deu tal tormenta aa popa, q' os apartou da terra, & em poucos dias ao Leuãte viram hũa ylha em trinta & dous graos, a q' chamam os Japoes, que parecem ser aquelas Sipangas de que tanto falam as escripturas, & suas riquezas: & assi estas tambem tem ouro, & muyta prata, & outras riquezas.
西暦1542年、シャム王国のドドラに停泊していた船の船長・ディエゴ・デ・フレイタスの下から3人のポルトガル人が脱走し、ジャンク船で中国へと出航した。3人の名はアントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト(ポルトガル語版)とアントニオ・ペショトで、北緯30度あたりにある寧波に進路を取った。しかし、嵐に見舞われ陸から離れてしまったところ、北緯32度で東に島を見つけた。その名は日本であり、まさに物語で語られる富貴の島ジパング(Sipangu)そのものであるらしく、金銀と豪華なものが溢れていた。— António Galvão[3]

「種子島に鉄砲伝来」はポルトガル船ではなく中国船だった

ザビエル到着の6年前、種子島に着いたのは…(鉄砲伝来の碑、写真:時事通信フォト)

 長崎・熊本両県にまたがる「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録された。日本でのキリスト教布教は、1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸に始まるとされる。その数年前には、種子島に漂着した南蛮船により「鉄砲」が伝来した。歴史作家で『ざんねんな日本史』著者の島崎晋氏が、キリスト教伝来と並ぶ日本史上の大事件「鉄砲伝来」にまつわる“よくある誤解”について解説する。

 * * *
 いつ果てるとも知らなかった戦国時代を終焉へと向かわせるきっかけとなった出来事は天文一二年(1543年)、九州の種子島で起きた。鉄砲の伝来がそれである。

 この一件を「ポルトガル船の種子島漂着」と記憶している人が多いのではないか。しかし、それは間違いである。漂着したのは中国・明の船で、船長は島民と砂上で筆談を交わし、自分は「大明儒生五峯」という者で、同乗の客人の中に「西南蛮種の賈胡(かこ)」がいるとも明らかにしていた。

 ここにある「西南蛮種」とは種子島の西南方向から来た異人種といった意味で、「賈胡」とは西方の商人、その正体はポルトガル出身の船乗り三人だった。

 彼らは何らかの理由からシャム王国のドドラ(現在のタイのアユタヤ)でポルトガル船からの脱走を図り、中国・明の商船に同乗させてもらった

 明の商船といっても、その船は合法的なものではなく、倭寇の船だった。倭寇とは元来、日本人の海賊をさす言葉であったが、この時期の、いわゆる後期倭寇の主体は中国沿海部の密貿易商人からなっていた。密貿易を本業としながら、時と場合に応じて海賊に転じる。それが後期倭寇の実態だった。

 一行が目指したのは最大の根拠地、現在の浙江省沖にある舟山群島だったが、強い嵐に遭遇して流され、種子島に漂着。それが日本への初めての鉄砲伝来という大事件につながるのだった。

ところで、漂着した船の船主は「大明儒生五峯」と名乗っていたが、実はこの人物、「五峯船主」「五峯先生」などとも称され、本名を王直(おうちょく)という歴史上名高い倭寇の大頭目だった。

 王直はやがて東シナ海と南シナ海を股にかけて活躍する倭寇一の大頭目と化し、明の当局から最大のお尋ね者とされてからは、現在の長崎県五島と平戸にそれぞれ一大拠点を構え、九州の諸大名から上客として扱われるなど、「海の王者」として一世を風靡した。

 仮に王直の船の漂着がなくとも、日本にも早晩、鉄砲が伝来していたことは間違いない。その場合、鉄砲伝来の地は九州本土のどこかになっていただろう。※島崎晋・著『ざんねんな日本史』(小学館新書)より一部抜粋

さて、本題の防衛費の考察

防衛費は先行投資

 当時の渡航費・船舶費用・乗務員の報酬・武器・弾薬への先行投資のスポンサーはどの様に考えたのであろうか。先行投資のための情報収集にキリスト教の布教活動と称して各地の色々な資源・財物・人材・軍事力の情報収集をしていたと思える。それを、事細かく本国に情報を提供していたと思われる。それらの情報の積み重ねで、1492年のコロンブスの北米到着で、新しい大陸が見つかるのである。新大陸への侵出は当然、費用対効果から言うと航海に費やした費用は莫大な成果となり、出資者に膨大な利益をもたらしたのである。特にイギリスの産業革命以降に大量生産体制となり、資源・材料の確保のために海外進出が盛んになる。イギリスは世界の領土の1/4の植民地を支配する程までなった。その後、米国。カナダ・オーストラリアなどが独立していくことになり、生産力を奪われていくのである。

日本の領海の海底に眠る資源の得べかりし利益(逸失利益)


さて、守るべき領土からどれだけ経済利益が上がるか、侵略・略奪された時の経済的損失が防衛費の分岐点となるであろう。
そして、日本の領海の海底に眠る資源の得べかりし利益(逸失利益)を算定し、その領海の資源を担保に国債を発行する(仮称資源開発債)を開発費と防衛費に充当する案を提言したい。
その開発費と防衛費の人件費などは日本国のGNPとなり、国民の生活を潤わせる円滑資金となる。この様に相乗効果が期待できるので、国家予算の捻出が出来ないと悩んでいる財務官僚に是非提言したい。

高橋是清の政策

高橋是清は『アメリカ留学・留学先で騙されてカリフォルニアのブドウ園で奴隷的労働・文部省や農商務省の官僚・ペルー銀山事業の失敗・日本銀行に入行・閣僚・総理大臣』といった特異な人生のキャリアを積んだことでも知られますが、日露戦争の時には日銀副総裁として英国の公債引受を実現して戦費を調達しました。

1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生した時には、田中義一内閣(1927年4月20日~1929年7月2日)で三度目の大蔵大臣を勤めて、モラトリアム(支払猶予制度)や紙幣の大量印刷によって当面の金融危機を回避しました。昭和6年(1931年)には、政友会総裁の犬養毅内閣において4度目の大蔵大臣となります。犬養内閣では金輸出の再禁止(12月13日)をして『管理通貨制度』への移行を促しましたが、これは日本の通貨が兌換紙幣から不換紙幣へと切り替わる『金本位制度の放棄』を意味しておりイギリスに次ぐ移行の早さでした。

兌換紙幣と不兌換紙幣

金本位制を放棄して管理通貨制度に移行したことで、『金の保有量』に制約されないフレキシブル(柔軟)な積極財政政策を行いやすくなり、大量の国公債発行による公共事業や軍事への投資が可能になりました。高橋是清はケインズ政策の先駆けとも言える公共事業・軍事予算を活用した『積極財政政策』を実行して、大量の国際を日銀に引き受けさせることで財政規模を拡大しましたが、国債・通貨の大量発行によってインフレが発生してデフレスパイラルの大不況を離脱する原動力となりました。国民経済を破綻させないレベルのマイルドなインフレを発生させることで、デフレスパイラルによる物価・労賃の下落や雇用の減少を堰き止めることができるのですが、これを『リフレーション政策・インフレターゲット』といいます。

時代を先取りするかのような高橋是清のリフレーション政策で、日本は欧米諸国よりも早く世界恐慌から離脱することができたのですが、高橋蔵相は六度目の大蔵大臣に就任した岡田啓介内閣において『2・26事件(1936年)』の被害に遭い、赤坂にある自宅の二階で陸軍青年将校に暗殺されてしまいました。高橋是清が二・二六事件において標的にされたのは、国民生活を圧迫する高率のインフレーション(物価上昇)を抑制するために、赤字国債と国家予算を縮小しようとして(軍部の怒りを買う)『軍事費の削減』に手をつけたからだとも言われています。





アダム・スミスのような『古典的自由主義(自由放任主義)』では、政府が市場に政策介入せずに市場の競争原理に任せたほうが経済は成長すると考えますが、公共投資・公共事業のケインズ政策を先取りしたかのような高橋是清は、赤字公債発行を辞さない政府の積極的な財政支出によって景気は回復すると考えました。経済政策として『緊縮財政』よりも『積極財政』のほうが景気回復効果が優れているという当たり前の事実に着目した財政政策ですが、このことは財政負担と歳出の小さい『小さな政府』から財政負担・歳出の大きい『大きな政府』への転換を進めました。

高橋是清が特に公共投資・公共事業として積極的に資金を投入したのは、『財閥系の大企業の基幹産業』『対外的な軍事費の増大』であり、高橋是清が大蔵大臣を務めていた1930年代後半から急速に『歳出に占める軍事費の割合』『歳入に占める国公債・借金の割合』が増大しました。

第二次世界大戦(大東亜戦争)の終戦が迫っていた劣勢の日本では、1943年に歳出に占める軍事費の割合が6割を越えており、歳入に占める国債の比率も7割に迫る勢いで、財政状況は赤字が累積する極めて厳しい状況になっていました。1932年には国内産業を保護するために関税の引き上げが為され、『日満自給圏(日本と満州・朝鮮のブロック経済圏)』の構想によって日本は欧米諸国からの輸入に頼らなくても良い『重化学工業の発展』に国家の歳出を重点的に振り向けていきました。

日本は基幹産業を国営企業や公共事業で育成して、軍事支出と雇用を増大させる積極財政政策によって『大きな政府』への道を歩み始めますが、当時の軍部や革新官僚の多くは自由市場主義を否定して、国家が主要な産業分野を管理統制して国民の労働力を動員できるようにする『統制経済論』を支持していました。1930年代の軽工業から重化学工業への転換が日本の不況克服の原動力となりましたが、この重化学工業の発展と需要の多くは軍拡財政・満州国への投資といった『軍需』によって支えられていたことにも留意しておく必要があるでしょう。

My opinion.

米国の軍事費の源はイギリスから独立後領土をタダ同然に略奪し拡張した
土地から金鉱山や石油鉱区が見つかり、その資金でロシアからアラスカを購入した。この様に最初から軍事費はなく、略奪した資源から軍事費を賄っていたのである。
そのように国土を広げる言葉として、マニフェスト・デスティニー( Manifest Destiny)がある。
元々はアメリカ合衆国の西部開拓を正当化する標語であった。「明白なる使命」や「明白なる運命」、「明白な天命」、「明白なる大命」などと訳出される。「文明は、古代ギリシア・ローマからイギリスへ移動し、そして大西洋を渡ってアメリカ大陸へと移り、さらに西に向かいアジア大陸へと地球を一周する」という、いわゆる「文明の西漸説」に基づいたアメリカ的文明観である。1845年、ジョン・オサリヴァンが用いたのが初出である。この際は、合衆国のテキサス共和国の併合を支持する表現として用いられ、のちに合衆国の膨張を「文明化」・「天命」とみなしてインディアン虐殺、西部侵略を正当化する標語となっていった。19世紀末に「フロンティア」が事実上消滅すると、米西戦争や米墨戦争や米比戦争、ハワイ諸島併合など、合衆国の帝国主義的な領土拡大や、覇権主義を正当化するための言葉となった。
 イギリスの帝国主義政治家ジョゼフ・チェンバレンも「マニフェスト・デスティニー」の語を使用し、「アングロ・サクソン民族は最も植民地経営に適した民族であり、アフリカに文明をもたらす義務を負っている」と語っている。
米国の失敗は大日本帝国との大東亜戦争である。日本を黄金の国と思ったのか、ルーズベルト大統領は馬鹿だね、愚かな男と思う。日本を征服してからこの戦争の費用対効果分析をすると、何の経済的利益を出していないのである。そして、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガニスタン紛争、すべて軍事費の持出である。大東亜戦争は日本はアジアの解放を大義名分にして戦ったので日本国土の略奪は出来なかった。今、米国が頭を悩ませているロシア連邦や中国共産党と日本は対峙してきたのを肩代わりしてくれたようなものである。日本の重たい荷物を持ってくれているようなものである。

米国が世界恐慌から脱出した経済効果のあったのは、ニューデール政策ではなく第二次世界大戦と軍事支出である
ミルトン・フリードマンは「1929-1933年と1933-1941年の期間は別に考えるべきである。大恐慌ではなく大収縮を終わらせたのは、銀行休日、金本位制からの離脱、金・銀の購入計画などの一連の金融政策であったのは間違いない。大恐慌を終わらせたのは、第二次世界大戦と軍事支出である」と指摘している。宇沢弘文は「結局は、ニューディール政策がどういう結果・成果をもたらしたかが解る前に第二次世界大戦に突入してしまった」と述べている。また宇沢は「フリードマンが中心となって、ニューディール政策のすべてを否定する運動が展開されたロナルド・レーガン政権の頃にはニューディール政策は完全に否定された」と述べている。
軍事支出はインフラ整備と同じような景気浮上という経済効果を持つことは歴史が証明している。そしてその軍事費は、国民の生活・財産・生命を守るものであり、現在・将来への保証のための先行投資である。そのための原資・財源は前述したように領海に存在するのである。 どんとはれ!


参考文献・参考資料

奥州藤原氏 │ 平泉の歴史 │ 平泉の文化遺産 (town.hiraizumi.iwate.jp)

「種子島に鉄砲伝来」はポルトガル船ではなく中国船だった|NEWSポストセブン (news-postseven.com)

鉄砲伝来 - Wikipedia

征夷大将軍 - Wikipedia

クリストファー・コロンブス - Wikipedia

東方見聞録 - Wikipedia

坂上田村麻呂 - Wikipedia

源頼朝 - Wikipedia

足利尊氏 - Wikipedia

政治講座ⅴ527「日本は実は資源大国である。レアアース、石油、メタンハイドレートすべて海底にある。」|tsukasa_tamura|note

政治講座ⅴ417「全千島列島に加えて南樺太などの北方領土は日本の領土」|tsukasa_tamura|note

政治(産業・経済)講座v391「メタンハイドレートで日本は貧乏国から資源大国へ」|tsukasa_tamura|note

政治講座v185「竹島占拠し、第7鉱区の資源(海底資源)まで狙う浅ましさ」|tsukasa_tamura|note

政治講座v226「日韓の石油利権の争いとロシア石油の英米石油利権。日本も石油・鉱物資源大国の仲間入り」|tsukasa_tamura|note

逸失利益 - Wikipedia

高橋是清 - Wikipedia

高橋是清の財政政策と二・二六事件 (esdiscovery.jp)

マニフェスト・デスティニー - Wikipedia

フォートノックスに金塊はあるのか? - 歴史上最大の経済危機を切り抜けよう! (be-rich.me)

フォート・ノックスに保管されている金をめぐる疑惑 - trendswatcher.net

ニューディール政策 - Wikipedia

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