政治講座ⅴ2103「中国共産党の計画経済とは無計画経済である。『需要と供給』のバランスを欠く。有効需要、過剰生産、過剰債務」
温故知新。全く、歴史から学んでいない。
中庸の徳。過ぎたるは及ばざるがごとし。
このように中国の偉人は良いことを言っているが、さっぱり学習・実践されていない。
寧ろ、悪化しているようである。
毛沢東の推進した大躍進政策の失敗。そして、文化大革命での社会文化破壊。大躍進政策のための中国人死者は7000万人を越えると言われている。
祖先返り習近平政権では、改革開放ではGDP至上主義で過剰債務で不動産バブルを作り崩壊させた。
鉄鋼業も過剰生産でその消費地を発展途上国に求め、債務の罠で「一帯一路」も隘路にはまった。
環境に良いとのことで始めたEV車も大量生産の過剰生産と大量輸出で問題を起こしている。
中国経済に関しては、経済悲観論を封じる「中国経済光明論」の大号令という隠蔽の奨励は毛沢東時代に祖先返りである。秘密!秘密!嘘!の隠蔽政策の政権運営である。これから始まる中国の伝統文化の政変の「易姓革命」が起こるのである。
政治講座ⅴ2038「中国で権力闘争始まる?易姓革命か!」|tsukasa_tamura
政治講座ⅴ1864「腐敗というより利権化した共産主義の命運」|tsukasa_tamura
今回はそのような報道記事を紹介する。
皇紀2685年1月17日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
報道記事紹介
経済悲観論を封じる「中国経済光明論」の大号令 目立った効果はいまだなく 岸田英明
2024年9月2日
岸田英明氏・三井物産戦略研究所国際情報部チーフアナリスト
「中国経済光明論」とは文字通り、「中国経済の未来は明るい」と見る論だ。
2023年12月に中国共産党の中央経済工作会議で言及されて以降、党指導部は折に触れ「光明論を響かせよ」というメッセージを打ち出している。
直近では7月末の重要会議で習近平総書記がたて続けに言及した。
長引く不動産不況や個人消費の弱含み、貿易や技術を巡る米中間の摩擦など、中国経済が困難に直面する中、光明論を通じて、経済政策を担う党員・党幹部らに自信を抱かせるとともに、中国の家計や内外の企業、投資家らのマインドを改善させる狙いがある。
党の思想ブレーンである王滬寧・中央政治局常務委員は光明論について、1月に開かれた全国政治協商会議委員向けの会合で次のように語っている。少し長いが、指導部の意図を理解する上で重要な説明であるため全て引用する。
「……経済運営と世論伝搬の規律を把握し、党中央の大政方針と経済政策を宣伝・説明し、我が国の経済発展の形勢を全面的かつ弁証法的、長期的に捉え、発展への信頼を高め、社会の期待を安定的に改善し、中国経済光明論を響かせよ」──。つまり、指導部が伝えたいのは、光明論は決して結論ありきの「ためにする議論」ではなく、中国経済の実態を正しく捉えれば必然的に導かれる結論である、ということなのだろう。
実践面では二つのアプローチが確認できる。一つは中国経済のポジティブな点をアピールすることで、二つ目は経済の先行きに対するネガティブな言説を封じる、またはそれに対抗することだ。ポジティブな点としては、巨大な人口や豊富な人材、広範な産業の集積、新技術に対する消費者の高い許容度などのアピールが多い。
中国EV、じつは「作れば作るほど地獄絵図」に…!中国が世界一の「自動車大国」になったウラですすむ「EV大崩壊」のお寒い事情
藤 和彦(経済産業研究所コンサルティングフェロー) によるストーリー
中国EVの「地獄絵図」
中国経済は今年、回復軌道に乗ることができるのだろうか。たしかに中国の自動車産業、特に電気自動車(EV)分野での躍進はめざましい。
世界の昨年第3四半期のEV販売台数は上位10社の半数が中国勢だった。昨年の自動車生産は世界で初めて年間3000万台を超え、世界シェアは39%に達している。だが、内実はお寒い限りだ。
中国自動車流通協会は昨年末「値下げ販売による1~11月の累計損失額は1776億元(約3兆8200億円)となり、前年から2.1倍になった」ことを明らかにした。「作れば作るほど赤字が増える」という地獄絵図だ。
この現象はドローンや半導体、人工知能(AI)などのハイテク産業でも同様だ。
中国企業は元来、自社製品に持続的な需要があると判明する前に生産能力を急速に拡大する傾向が強かったが、政府が「新しい質の生産力を向上せよ」とハッパをかけたせいで経済のデフレ圧力は強まるばかりだ。
急増した「配車ドライバー」と「公務員志願者」
輸出に大きく依存している中国経済にとって、米国を始め国際社会との地政学的な緊張を高めていることも頭の痛い問題だ。
内憂外患が中国の現状だが、経済対策にあてる財源も枯渇しつつある。
特に、土地使用権売却収入が激減した地方政府の財政は火の車だ。糊口をしのぐ目的で企業や市民に難癖をつけて罰金を科す行為も目立ってきており、李強首相が昨年末に「地方政府による罰金収入の異常な増加を注視している。問題があれば速やかに是正すべきだ」と警告を発したほどだ。
中国政府は昨年末、チベット自治区に世界最大級の水力発電ダムの建設を承認した。規模は三峡ダムの3倍、投資額は4倍だ。経済にテコ入れを図る狙いだろうが、その効果は少なく、莫大な借金が残るだけの結果に終わる可能性が十分にある。
中国の経済専門家は、「過去2年間で配車アプリのドライバーが突然2000万人も増えた。その多くがかつて中産階級に属していた人々だ」と指摘する。
習氏は「貧困層を撲滅した」と胸を張ったが、実態は逆なのだ。
中国では昨年、公務員試験の志願者数が前年に比べて40万人以上増加し、340万人となった。この数字は過去最高であり、2014年の3倍だ。若者の失業率の高止まりが続いており、終身雇用などが保障された公務員の人気はうなぎ上りだ。
ロイターは1月3日、「中国政府は国内数百万人の公務員に対し異例の賃上げを実施した」と報じた。
消費刺激策の一環だとみられている。賃上げが約4800万人の公務員全体に適用されれば、総額で120億~200億ドルの一時的な経済効果があるとの推計があるが、前述したとおり、財政状態が厳しい地方政府にその財源が手当てできるとは思えない。
こうしたなかで、習近平国家主席は最後のカードを引くのではないかと筆者は懸念している。それは、中国の文化大革命の悪夢の再来ともなりかねないものだ――。
「EVはガソリン車よりも環境負荷が小さいとは言えない」…!中国に使い捨てられた「EV墓場」が次々と生まれる「深刻なワケ」
中国にまたEV墓場が生まれる…
満身創痍の中国経済にとってEVは頼みの綱だが、その勢いにかげりが見え始めている。
前編『中国EVの「弱点」が発覚して販売台数が激減…!国民の不満を映す「中国版お年玉」の寒すぎる事情』で紹介したように、205万台にとどまり前月比14%も減少した。その主要因がEV販売台数の低迷で、前月比47%減の40万台と大幅に減少したのだ。その理由として挙げられているのは、1月に襲来した大寒波の影響だ。
1月には中国北部で氷点下がつづいたが、厳しい気象条件では走行距離の限られるEVは、敬遠されたようだ。一部のEVが凍結した路面に適していない設計になっていたことも消費者の購買意欲を低下させたと言われている。
業界関係者は「冬の寒さの影響が薄らぐ3月以降は販売台数が回復する」と楽観視しているが、はたしてそうだろうか。
現場の販売担当者が「スマートフォンのようにEVを買い替える若い消費者が続々と来店する」と指摘しているように、中国ではZ世代がブームの中心にいる。
このため、中国のEVはスマホのように頻繁にモデルチェンジを繰り返すようになっており、その結果、使い捨てられたEVの「墓場」が各地で出現している。このような状況を踏まえ、中国の専門家は「EVはガソリン車よりも環境負荷が小さいとは言えない」と危惧を抱くようになっている。
春節大移動で「中国EV」の弱点が見つかった!
実際の購入者からも「EVには優遇措置があるが、ガソリン車と比べてメンテナンスコストが依然として高い。3年以内はEVを選ぶな」などの厳しいコメントが相次いでいた(1月18日付RecordChina)。
「弱り目に祟り目」ではないが、EVへの逆風は春節期間中にさらに強まった。
高速道路の通行が無料になったため、節約意識を強める多くの中国人がEVでの移動を選択したことにより、EVの脆弱性が一気に露呈してしまったのだ。
「帰省中に6回の充電のために8時間を費やす」などのトラブルが頻発し、「そもそもEVを買うべきだったのか」との不満がネット上を埋め尽くした。春節期間中に「EVの問題発生件数はガソリン車よりも40%多かった」との衝撃的な調査結果も公表されている(2月13日付RecordChina)。
国民の不満の矛先は「台湾」へ
「EVは環境に優しい」との認識から中国で一大ブームが巻き起こったが、「不都合な真実」が次々と明るみになっている今、逆風はさらに強まることだろう。
「頼みの綱」のEVが失速するような事態となれば、中国経済は総崩れだ。中国人の経済面でのプライドは粉々になってしまう可能性は排除できなくなっている。
過去の政策(大躍進政策)の失敗
中華人民共和国の毛沢東が主導した農作物と鉄鋼製品の増産政策である。
1957年6月に中国共産党によるプロレタリア独裁を批判した民主派や知識人を「右派分子」とレッテルを貼って弾圧した反右派闘争で中国共産党への批判は不可能となった上に、中国共産党内部でも毛沢東への個人崇拝が絶対化されたため、党内主導権を得た毛沢東の指導のもと、1958年5月から1961年1月までの間に中華人民共和国では農作物と鉄鋼製品の増産命令が発せられた。反対派を粛清し、合作社・人民公社・大食堂など国民の財産を全て没収して共有化する共産主義政策を推進した毛沢東は、核武装や高度経済成長によって先進国であるアメリカ合衆国やイギリスを15年で追い落とすと宣言した。
しかし、非科学的な増産方法の実施、四害駆除運動で蝗害を招き、政策に反対する多数の人民を処刑死・拷問死に追い込んだため中国国内で大混乱を招き、中華人民共和国大飢饉(推定3500万〜5500万人[2]が死亡)が発生し、産業・インフラ・環境の大破壊や中華人民共和国最少出生数記録更新を招いた。
飢餓による死者に加えて、何百万人もの人々が殴打、拷問、処刑によって死亡した。 この運動の期間中に全住宅の30%以上が破壊された。
1957年11月6日、ソ連のニキータ・フルシチョフ第一書記は「ソ連は工業生産(鉄鋼や石油、セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろう」と宣言した。
中ソ対立が鮮明化しつつあった中、毛沢東共産党主席はこれに触発され、1958年5月の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスをこれらの農工業の生産指標において15年で追い越し、アメリカに追いつくという、壮大な計画を立案した(超英赶美(中国語版))。
しかし、市場原理を無視して一部の農工業生産指標のみにおいて3年間でイギリスとアメリカを追い越すほどのノルマを人民に課し、杜撰な管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。
1959年7月から8月にかけて、江西省の廬山における会議(廬山会議)において、彭徳懐国防部長(元帥)が大躍進政策の問題点を諫めた。
この指摘に対して毛沢東は労働者を搾取する制度を正当化する観点が含まれているとして、社会主義への裏切りであると拒否した。
毛沢東の激しい反撃の前に多くの共産党有力者は日和見的態度をとるか、彭徳懐を支持した少数の者らも毛沢東側に自己批判を迫られる状態となり、彭徳懐は孤立化、失脚させられた。
この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。
そして、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。
また、当時の中国共産党の指導層は高等教育を受けた者が少なく、無学が故に、需要・流通・輸出入・インフラなどを含めたマクロ経済やミクロ経済のメカニズムのみならず、生態系全体のシステムをも完全に無視し、単に数字上の生産目標達成のみを目的とした単純かつ一面的な計画を押し付けたことも甚大な被害を招いた原因の一つである。
経済のシステムや自然を、ごく単純な合理思考で改造・操作できると考えてしまったのである。
大躍進政策は多くの「運動」の総称である。ここでは主要なものを列挙する。
大製鉄・製鋼運動
1958年10月から鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国の都市、農村で展開されたが、金属工学の専門家もそれに適した設備も存在せず、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなかった。
建設資材
土法炉を建設するための主な資材である耐火煉瓦の供給は皆無に等しく、一般住居用の煉瓦ですら供給不足の状態だった。このため、煉瓦製の塔・寺院・城壁など、全土で多数の歴史的建造物が土法炉建設用の煉瓦採取の目的で解体・破壊された。
燃料の確保
目標としていたイギリスやアメリカに比べ電化が遅れていたことから、農村部などほとんどの地方では木炭を燃料としていたため、必然的に土法炉の還元剤にも木炭を使用することになった。この事は木炭を生産する目的で、全土で樹木の大規模な伐採が開始されることを意味した。
伐採の対象は事実上無差別・無分別であり、果樹園の果樹・園芸用の灌木も例外では無かった。石炭が入手可能な都市部でも、コークス炉を備えていない場合が多く、石炭を地上で直接燃やしてコークスを生産する方法を採用したことにより、結果的に大量の石炭を浪費することになった。
原料の確保
鉄鉱石は石炭同様産地が限られている上に供給不足の状態であり、多くの地方では砂鉄の入手すら困難な状況にあった。このため、都市部では鉄製の各種設備・構築物を解体した。農村部では人民公社で農業と食事を集約化するので不要になるという名目で、各家庭の鉄製の農機具・炊事用具を供出させた。これらの供出された屑鉄を土法炉に投入するという、鉄製器具で屑鉄を生産する本末転倒な状態に陥った。
結果
1117万トン生産鉄の内、60パーセントが全く使い物にならない粗悪品(銑鉄)だった。それでも増産計画に従って生産を続けたため資源を大量に浪費する結果となった。さらにこれらの無理な増産計画によって作られた粗悪なものを含む鉄の用途、さらに販売流通も全く考慮されていなかったために、工業生産から流通までに長期間にわたり悪影響を残した。
また、この時の製鉄事業により大量の木材が伐採された為、2010年代に至っても中華人民共和国では毎年洪水が発生している。しかも農民が大量に駆り出された為に管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまい、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜・農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。
四害駆除運動
1958年2月から四害(伝染病を媒介するハエ・蚊・ネズミ・農作物を食い荒らすスズメ)の大量捕獲作戦が展開された。中国語では「除四害運動」と呼ばれたが、スズメを大量に駆除したことから、「打麻雀運動」、「消滅麻雀運動」とも呼ばれる。しかしスズメの駆除はかえってハエ・蚊・イナゴ(蝗害)・ウンカなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被った。
スズメは農作物を食べると同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。
指導層の無知が故に食物連鎖の生態バランスを完全に無視した結果だったのである。後に駆除対象はスズメから南京虫に変更され、ソ連から大量のスズメが送られたといわれている。
密植・深耕運動
伝統的な農法も科学的知識に基づく近代農法も全く無視した政策が実行に移された結果、農業などにさらに大きなダメージを与えることとなった。まず第一に人民公社の設立などによって農村のコミューン化を強力に推し進めた。これは生産意欲の減退に繋がったが、1978年12月に生産責任制が導入されるまで一応システムとしては存在した。
また、ルイセンコの学説に基づいた農業開発を行った。これは度を越えた密植や種を2メートル以上の深い穴に埋める事であり、農業技師の助けも借りずに素人を動員して灌漑機構を作ったりするなどという稚拙なものであった。当然のごとくこれらの手法は全く効果を上げず、凄まじいまでの凶作になった。
チベット地域
1958年5月に始まった大躍進政策は軍事侵攻の末に同国に併合されて間もないチベットでも行われた。しかし餓死者は続出し、1989年の中国社会科学院の調査では、飢饉で死亡した数は1500万人とされる。
この他、人口統計学者のジュディス・バニスターは、3000万人と推計している。
1980年代の北京経済制度研究所による報告書では、パンチェン・ラマの故郷である青海省では、人口の45パーセントに当たる90万人が死亡し、四川省では900万人が死亡したという。飢饉について研究したジェスパー・ベッカーは、「中国のいかなる民族も、この飢饉によってチベット人ほどの苛酷な苦難に直面した人々はいない」と指摘している。
パンチェン・ラマ10世の諌言
チベットに対する中国共産党政府の抑圧政策の実状に触れるにつれ、パンチェン・ラマ10世は1962年、中華人民共和国のチベット支配を批判した諌言「七万言上書(7万字の覚書[7])」を上奏した。七万言上書は長らく極秘文書であったが、のちに発見された。
1962年5月18日、パンチェン・ラマはチベット政府首班の地位を周恩来国務院総理に譲る。李維漢統一戦線部部長は3カ月間諌言を受けて改善を実行しようとしたが、同年8月に毛沢東は中止を指示し、李はパンチェン・ラマとの結託を批判され、パンチェン・ラマも自己批判を命じられ、1963年にラサで50日間の闘争集会に掛けられたあと、北京に送還された。なお1960年に法学者国際委員会報告書は、チベットにおいてジェノサイド(民族絶滅を意図する大虐殺)があった明らかな証拠があると発表しており、七万言上書はこの見解を裏付けるものとなった。この七万言上書について周恩来は「事実ではない」と答えている。
七万言上書は1959年3月のチベット動乱(1959年のチベット蜂起)に対する中共政府の過剰な報復的処罰を批判している。
大躍進政策によるチベットの惨状についてパンチェン・ラマは周恩来国務院総理に改善を求めている。
また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで、パンチェン・ラマは次のように書いている。
カム地方でも1965年まで飢餓が続き、パンチェン・ラマが批判した惨状が継続していた。他にもパンチェン・ラマはチベット民族の消滅を危惧している。
パンチェン・ラマ10世は文化大革命の際に紅衛兵に拘束されて1968年から1978年まで10年間投獄され、出獄後も1982年まで北京で軟禁された。パンチェン・ラマ10世は1989年の演説で「チベットは過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を支払った。二度と繰り返してはならない一つの過ち」と自説を述べた。
これは中共政府の用意した原稿を無視した演説であった。その発言のわずか5日後、パンチェン・ラマ10世は死去した。中華人民共和国政府は死因を心筋梗塞と発表したが、チベット亡命政府や西側のチベット独立運動家などは暗殺説を主張した。
毛沢東の一時失脚・文化大革命
毛沢東の主導で大躍進政策が全国で行なわれた結果、生産量を増大させた地方・地区がより「革命的」であり、その地区の共産党幹部がより有能で、昇進が約束される風潮が蔓延した。
そのため、各地の共産党幹部は目先の功を争い、毎年、中央人民政府に「党の指導によって、前年より更にこれだけの飛躍的な生産拡大がもたらされた」と報告し、現実の生産量を過剰申告したり、地区中の作物を一区画の畑に集めて写真を撮り虚偽宣伝する事例が全土で横行した。ある地区で農作物の生産量が増大したと宣伝された場合、隣接地区の幹部も対抗上、生産量が増大したと虚偽報告するしかなく、中央への申告と実際の生産量とのギャップは年々広がる一方であった。そして中央政府は、地方から報告された生産量を前提に、輸出などに回す穀物の供出を地方政府に命じた。「地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発した。その結果引き起こされたのが、広範囲の農村で餓死者続出の大飢饉だった」と周恩来に近かった関係者は証言する。飢餓の最悪期にも中国はソ連からの借款の返済に農作物を輸出していた。また都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている。
1959年、農業生産が激減、全国で大飢饉が発生したことで党内の権力基盤が弱まり、毛沢東は政策失敗を認めて自己批判を行ない、実質的な権力を失った。しかし、国家主席を継いだ劉少奇からの復権を狙い、1966年に毛沢東は文化大革命を起こす。
犠牲者数
結局、大躍進政策は数千万人の餓死者を出す惨憺たる大失敗に終わった。1959年にあるデータでは大躍進政策による餓死者数は3635万人であったという。
犠牲者数には諸説あるが、中国統計年鑑2017年版ですら1625万人もの人口減が確認できるほどの大飢饉であった。
中国共産党の内部文書には1958年から1965年の間に4500万人が大飢饉で死亡したと記録されている。
サミュエル・ジョンソン賞を受賞したフランク・ディケーターは大躍進政策のための中国人死者は7000万人を越えると指摘している。
国内で起こった混乱や飢餓で産まれなかった者も含めると7600万人との分析がある 。農村部では特に栄養失調者が相次ぎ、食人行為が横行するほどの飢餓を生む大失敗に終わった。
毛沢東政権下の死者の合計が1億人とする説も出現した。毛沢東は1959年4月に国家主席を退任し、劉少奇が後任となる。
1962年1月の中央工作会議(七千人大会)で、劉少奇は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。
毛沢東がただ一度の自己批判を行ったのはこの会議の席上である。しかし、中国共産党中央委員会主席だった毛沢東賛美教育は変わらず、劉少奇がトップとして大躍進政策の尻拭いを担当した。しかし、1966年には再びトップの地位を得ようとする毛沢東の扇動によって、文化大革命が起きた。
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