好きな話、前歯が正中離開している
好きかどうかはさておき、ずっと共に過ごしている前歯の話。
自分は前歯が盛大に開いている。「スキッパ」と呼ばれるその前歯は、多感な頃からずっと悩みの種だった。小中学校の頃、週に2回やってくる給食の「パンの日」がとても嫌いだった。食べ跡を見るとスキマ分の筋が残るからだ。みんなにはない。誰もパンに残る歯型なんて注目していない中、自分はキョロキョロと周りの歯型を注意深く見ていた。そんなことしたくなかったけど、気になって仕方がなかった。誰も筋が残っていないことを確認してからは、うっすら手で隠すように食べるようになった。腕に噛みついてみて、残る歯型を見つめる時間とかもあったし、釣り糸で縛って寝たこともあった。不良に「こいつめちゃくちゃスキッパだよ!」「タモリかてめぇは」と絡まれ、スキマさえなければと呪ったこともあった。「そんなの矯正すればいいじゃん」というご意見は、当たり前のように通過している。小学生の段階で、親に打ち明けるよりも前に、町の歯医者に相談した。「虫歯じゃなくて聞きたいことがあって、」と言ったきり、お医者さんの前で黙ってしまい、言い出すまでに勇気がいったことをよく覚えている。おそるおそる「矯正できますか」と聞くと、お医者さんは優しく、お金がかかること、やるとしたらうちでは無理だということを教えてくれた。そうか、そんなにお金がかかるのか、というのが驚きだった。年に二回、盆と正月に町中華へ外食に行くだけの我が家には、そんなお金はなさそうだと判断し、「でも成長していくうちに塞がることもあるから!」というお医者さんの言葉を信じて帰ったが、家にいる父親の豪快なスキッパをみて、きっと塞がることはないだろうと悟った。(父方の家系はみんなスキッパである)
カッコいいとは程遠い前歯との付き合いは、いつまで経っても自分の喜ばしくない特徴として続いていった。高校の時、テニス部での練習試合で他校の対戦相手が「あんなスキッパには負けねーよ」と嘲笑しているのを耳にして、一旦落ち込んだ後、切り替えてボコボコにした。こちらはほぼノーミスだった。試合の中ではある意味プラスに働いたが、その後はしばらく引きずった。近所のコンビニでバイトをしていた大学生くらいの女性店員が軽めのスキッパで、つい親近感から「僕もなんです」といった具合にレジで受け答えをしていたら、向こうのテンションが明らかに下がっていった。「…同族嫌悪か?」と思った。見ず知らずのスキッパ同士は仲間意識を持てないことを知った。みんなスキッパ を恥じているからだ。初対面の人とは口元を隠しながら話すことが増えた。
大学に入り、そろそろいろいろと諦めがついた頃、逆にプラスな情報はないのかとネットで調べてみた。すると、海外セレブやモデルの間でスキッパは「チャーミングなワンポイント」として好意的にみられているという記事を見つけた。ジョニー・デップの当時の彼女・ヴァネッサ・パラディやマドンナなどがスキッパで、「実にチャーミングだ」と書いてあり、「なるほど、これはいい!」と励みになったが、紹介されていた記事をよく読んでみると、「パーフェクトからの逸脱」という文字が並んでいた。パーフェクトからの逸脱…?それは、「完璧な人間がスキッパだと抜け感があっていい」みたいなニュアンスの文章で、ちょっと待ってほしいと思った。そもそもパーフェクトでもなければ抜け感を欲していないスキッパは一体どうしたらいいんだ。抜け感だと?逸脱だと??ついでにスキッパの学術名が「正中離開」だということも知った。物悲しい四文字熟語である。昔習っていた空手でよく、「相手の正中を取れ」と言われていたから「正中」という言葉には馴染みがあり、その意味は「体の真ん中、軸に対してアプローチしやすいスタンスで構えておけ」といった具合のものであったが、まさか自分の正中が離開しているとは知らなかった。相手の正中を取ろうと構えている自分の正中が離開していたとは。そんなバカな。相手にとって見事な目印ではないか。ボウリングにある投げやすい目印のマークと一緒じゃないか。「正中がとりやすかったですね。相手が正中離開だったもので」などと言われていたのではないかと思うと嘆ききれない。さらに調べると、中国の人相学では「隙間から運気がすべて逃げていく」と書いてあり、さすがの文言に笑ってしまった。すべてって。そんなデメリットあるか?じゃあうちの親族はみんな運気を逃がしながら生きてきたのか?調べていた大学の図書館の一角にあるパソコンコーナーでそんなことを思った。
芸人になり、この正中離開はさんざんいじられるようになった。「それは何?一本抜いてきたの?」とか、「タバコ挟めるでしょ?」とか「爪楊枝いらず」とか「じゃりン子チエ出てた?」とか、出会う芸人ごとにいろいろなことを言われて最初は戸惑ったが、そこに悪意はなく、何か返せば笑ってくれることを知った。あまり絡みのない先輩がすぐに覚えてくれ、話を振ってくれるようになり、次第に嬉しく思う場面が増えた。YouTubeでネタのマネをしてくれていたスキッパの子供がいて、そのコメント欄に「スキッパのまま大人になったらかわいそうだ」とのお言葉があり、その返信に子供の親から「まだ乳歯なので大丈夫です!」とあり、マネているご本人はもう立派な大人なんですけど…みたいなエピソードを舞台上で話したらウケたこともあった。恥じていた正中離開がプラスに転じた瞬間だった。過去にクヨクヨと、だいぶクヨついていた自分に教えてあげたかった。意外なプラスに転じるよと。よくないことばかりじゃないよと。タモリさんに楽屋で、「お、スキッパだねぇ。みせて」と言われ、「立派な前歯だねぇ」とニコニコされた時、ちょっと泣きそうになった。絡んできたヤンキーに聞かせてやりたかった。
それからは、スキッパにまつわる経験をいろいろメモしておくようになった。歯医者に行ってクリーニングをしてもらっていた時に、歯科助手的なおばさまが小さなドリルで歯の表面を研磨して綺麗にしてくれている最中、奥歯からゆっくり進んできたドリルがスキマを利用してターンし、歯の裏側へ進んでいったことがあった。ダイナミックな利用方法に笑ってしまった。いや、折り返し地点ではないから。ちょうど真ん中にあるけど。おばさまがうっすらニヤついているようにも見えた。やめとけよ。報告するぞ。キレイに磨いてくれてありがたいけど。他にも、スキッパの子供が笑顔で歯磨きをしている歯の矯正のポスターがあって、そこに、「歯並びは身だしなみ、あなたは大事な会議にネクタイなしでいけますか?」という文字が書いてあった。バカ言うなよ。誰が年中ノータイだよ。笑顔の子供とメッセージのバランスおかしいだろ。CMのオーディションに受かったものの、外資系のスポンサーによる前歯NGが出て落ちた。外資め。やってくれたな。撮影日まで決まっていたのに。前歯NGってなんだ。コンプラにでもひっかかんのか。じゃあそもそも呼ぶなよ。爪楊枝を使っているとジロジロ見られた。なめるなよ。奥歯にスキマはないから。等間隔に開いてるわけじゃないから。しっかり開いてるのは正中だけだから。じゃんけんをする時、「もうチョキ出してんじゃん」と言われた。待てよバカ。確かに逆ピースみたいな前歯だけど。前歯でじゃんけんするヤツみたことあんのか。じゃあみんなの前歯はグーチョキパーのどれだよ。チョキ出せてるだけ器用ですげーだろ。
屋敷よ、そんな顔で見てくれるなよ。
憎み続けたこの前歯も、今となっては捨てたものではないなという話でした。皆様それぞれ好きになれない自分のあれこれがあると思いますが、時間が経ったり、違う視点からみたり、そもそも他人はそんなに興味を持っていなかったりと、必要以上に頭を悩ますことはないのかもしれません。今のところ生涯添い遂げようと思っていますが、もしもシレッと矯正を始めたら、その時はマジでそっとしておいてください。