見出し画像

【短編小説】 『足下の上』③

僕には名前がなかった。

本屋に住んで2ヶ月が経って、おじいさんに聞かれて初めて気づいた。
今まで気に留めたことがなかったのだ。
今になって思うと、そこまで聞かなかったおじいさんも不思議だ。
ないと聞いて目を丸くしていた。

名前など、必要なかったのだ。
願いを込めて僕を見る人などいなかったから。
祈りを込めて僕を呼ぶ人などいなかったから。

「私がつけよう」
おじいさんはそう言った。
「うん、、、でも、、、」
「ん?なんだ?嫌か?」
「ううん、名前ってなんで必要なの?」
そう言った時、おじいさんは悲しそうだった。

「名前はな、親が子につけるもんだ。
 それはな、祈りと責任を持ってつけるんだ。
 この子が幸せになりますようにという祈りと、
 私が養い育てていきますという責任だ。
 わしがお前に名前をつける。それはそういうことだ。
 いいかな?」
胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。
なぜだかわからないが、走り出したくなった。
こんなことは、初めてだった。
「つけて。
 つけてください。お願いします」
そう言って頭を下げた。

そしておじいさんは僕に、「羊(よう)」と名付けた。
僕の髪の毛がくるくるでひつじみたいだかららしい。
おじいさんの苗字は矢口だったので、僕は「矢口羊」となった。

「これでわしが、お前の親だ」

そうか、と呟いて、
ノートの後ろに「矢口羊」と書いた。

これでノートが僕のモノとなった。
そして僕はおじいさんのモノとなった。

それは初めてのことだ。
それはとても、嬉しいことだ。

一人で生きてきたから。

「これでわしが、お前の親だ」
と、おじいさんは言った。
「もうお前は一人じゃない」
とも。
「心配するな。これから先、わしがこの手を離すことはない」
とも。

心配、という感情がわからなかった。
でも今まで、こんなに心が軽くなったことはなかった。
一人じゃない、ということがわからなかった。
でも今まで、こんなに与えてもらったことはなかった。

おじいさんはくしゃくしゃと僕の髪をかき混ぜて、倉庫に入っていった。

貪るように僕は、店の本を片っ端から読んだ。
意味がわからないものは何度も読んで、それでもわからなければおじいさんに聞いた。
でもできるだけ自分で想像した。

おじいさんが漢字のドリルをくれた。
小学一年生用と書いていた。
小学校というものを僕は知らなかったし、どう想像しようにもわからなかったので、
おじいさんに聞くと、6歳から子どもが勉強しにいくところだと言った。
「僕は10歳だよ」というと目を丸くしていた。

「そうか、小学校に入れてやらんといけないのか」
ハッとした顔で、おじいさんは言った。
「たぶんだけど、、、」
歳には自信がなかった。
誰かに5歳だと言われてから数えていただけだったから。

「まあ、いいか」
と、おじいさんが言うから、僕もそう思った。

とにかく今まで通りの生活を続けることになった。
ドリルは楽しかった。
意味と形が繋がっているのだ。
今まで路上で見てきたことに、カチッと音を立てて漢字がハマっていく感覚がした。

「上」「下」「前」
どれも誰かの顔が浮かんだ。

僕はどんどん文字の世界に没頭していった。

いいなと思ったら応援しよう!