小説『小説家』 第六話
第六話
『男は焦りとは無縁だった。』
「おっちゃん、ほんまにこの一節を書いた人なん?
めっちゃ焦ってるやん」
そう冷ややかな目を向ける小学3年生の少年は一郎のファンである。
『穴掘る男』の連載が始まって半年が経った。
相変わらず誰が読んでいるのかわからないその文芸誌に載り続けることは、日常とは切り離されたところにあるものだった。
そんな時に、まさか「顔バレ」を経験するとは、微塵も思っていなかったのある。しかも公園で。しかも小学生から。
隣の部屋のあおいはまだわかる。
大学生だ。それでも大家に聞いていなかったらわからなかっただろう。
「なぁ、おっちゃん、海流厳一郎やろ?」
ドキッ!!
一郎のことである。
外でペンネームで呼ばれることほど、恥ずかしいことはない。
「な、な、なに、な」
狼狽えていると、
「やっぱな! めっちゃ焦ってるやん!」
なんだこの関西人は。
なんで東京にいるんだ。
目の前にはニンマリしている生意気そうな少年。
一郎は「砂場でひたすら高い山を作る時間」を取っていたのだ。
穴を掘り続ける男の心情を考え続けるために、大切な儀式となっていた。
その儀式の最中に声をかけられ、驚いて何も言えなくなってしまった。
確かに目立っていたかもしれないが、そういう目立ち方ではないはずだ。
「オレ、ファンやねん! 握手してや!」
一瞬、意味がわからなかった。
「今やってる『穴掘る男』、めっちゃおもろいわ! 最高や!
なぁ!サインもちょうだい!」
グイグイくる。
「わかった! わかったから!
あんまり大きな声で言うな!」
「あ、あかんの?」
「ま、まぁな」
こんな無名の自分が周りが騒ぎ出すだろうとかいう心配をしていることが滑稽で恥ずかしくて、どうしたらいいかわからなくなった。
「ジュ、ジュースでも飲むか?」
絞り出した言葉がこれである。
そう言って自販機の前まで来たが、まだ手が震えていた。
小銭が地面に落ちる。
「おっちゃん、ほんまに、
『男は焦りとは無縁だった。』
この一節を書いた人なん?
めっちゃ焦ってるやん」
こいつ、本当に読んでるじゃないか、、、
めちゃくちゃ嬉しい、、、
ファンタオレンジの缶のやつを2本買って、1本渡した。
それを飲みながら公園のベンチで並んで話す。
「いやー、嬉しいわぁ。
海流先生に会えるなんて!
やっぱ東京はすごいなぁ。大阪から引っ越してきて唯一よかったことかもしれん」
「いやぁ、びっくりしたなぁ。
そうか、大阪から来たのか。遠いなぁ」
「ほんまやで。めっちゃ遠いわ」
「遠いよなぁ。
好きか? 大阪は?」
「ハハハ。さすが先生やな!
普通は東京好きか?って聞きそうなもんやのに
そうか、大阪か。
おった頃はこんなに汚い街、誰が好きやねんと思ってたけど、そうやなぁ、好きっぽいなぁ」
「そうかぁ。
東京はなぁ。東京も汚いけどな、綺麗に見えるところに違和感を感じるよなぁ」
少年はハハハとまた笑った。
「ところで、よくおれの小説なんか知っているな。
小学生で、こんなマイナー作家を」
「そやなぁ。周りは当然知らんわなぁ」
おい。
「オレのおとんがな、好きやってん。
それでオレも読んでめっちゃ渋いやんおもて好きなったねん」
「そうか、、、」
本当に、単純に、普通に嬉しい。
「そうや! オレをアシスタントにせえへん? 先生!」
突拍子もないことを言う。
「え、、、いやいや、漫画家じゃあるまいし。
第一、名前も知らないんだぞ」
「あ、ごめん。オレ鉄平や! よろしく! 先生!」
あー、、、
「あー、、、とりあえず、ウチ来てみるか?」
まだ午後四時だ。暗くなるまでには時間がある。
少年と小説家。二人で歩く。
もう50mで家というところで、前からよく見知った女性が歩いてきた。
あおい、だ。
「あ、先生!」
パァッと顔が明るくなるあおい。
「せんせえ〜〜??」
鉄平がグッと睨む。
「あら? こんにちは! 先生の親戚の子とかですか?」
「ちゃうわい! 先生のファンや!
さてはおまえ、、、」
グッとあおいに近づいていく。
「おまえ! お前も先生のファンやな?!!」
「え!! もしかして、君も??」
「せやー!! あんたわかってんなぁ!」
キャッキャとはしゃぐ二人。
急速に仲良くなっている。
三人で一郎の部屋に入った。
パソコンに向かう一郎の背で、二人は延々と話し込んでいた。
自分への褒め言葉は、騒音よりも耳に入ってくる。
やっかいなことに止める気も起きない。
結局、暗くなるまで話していたから、鉄平を家まで送っていくことにした。
近かった。歩いて15分だ。
親を呼んでくると家に入っていったかと思うと、父親を連れて戻ってきた。
父親もサイン色紙を持って現れ、「これからよろしくお願いします」と強く一郎の手を握った。
あおいと一緒にアパートに帰った。
部屋の前で別れる時にあおいが言った。
「あの、、、私もアシスタントしますから。
なんでも仰ってくださいね。先生」
扉の閉まる音がした時、鼻の頭に小バエが止まった。
過去話は以下!