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【短編】Cathyの手紙
『大学入学に際して書いた自己説明文』
私は狼に育てられました。
3歳で森に捨てられ、12歳でレンジャーに保護されたのです。
そこから6年、18歳の私は今日から大学に行くまでに学力を得ました。
それはノースカロライナ州にあるレンジャーの施設で大切に育てられたからです。
そこで私は人間の言語を取り戻し、すべての覚えていることを説明したのです。
3歳で森に捨てられた時、私はある程度の会話ができました。
自分の思いを伝えることはできたことを覚えています。
両親に対して嫌な思い出はありません。
捨てられるまではたくさん愛してくれたのでしょう。
その証拠に私は、一度も世界を怖いと思ったことはありませんでした。
目の前に狼が近づいてきた時も。
狼は人の言葉がわかります。
正確には、何をして欲しいとか、何を思っているか、を敏感に感じ取るのです。
私は言葉を発しますが、彼らには言葉は必要ないのです。
その代わりに彼らには意志があります。
それが鳴き声を通して伝わるし、表情からも伝わります。
私は狼のお母さんが何を考えているかをしっかりと理解していました。
しかし生きること以外、今この時を生きるためにすること以外には、伝え合う必要はありませんでした。
3歳の時に覚えていた言葉以外を必要とすることはありませんでした。
「あっち」「こっち」「行こう」「お腹すいた、、、」といったところです。
その代わりに狩りの時のチームワークにおけるコミュニケーションは人間以上のものがあります。
それは舞台における立ち位置に通じていると思います。
誰がどこに立っているか、気配で察知して、その空いてるところに立ちバランスをとるのです。
その時の通じ合う感覚に、人間である私は快感を感じていました。
12歳でレンジャーに発見され保護された後も、自分が悲惨な目にあったということは思っていませんでした。
今も思っていません。
今でも世界は、私の味方です。森も狼も私のことが大好きです。私も好きです。
しかし私は保護されたことを感謝しています。
多くのことを知ることができたからです。そして考えることができるようになったからです。
その知識と知恵を持って、森や私の家族を守ることができるからです。
貴校に入学できることを心より、神に感謝しています。
入学後は言語学を学び、より深いコミュニケーションについて思索を深めていきたいと思います。
その研究は直接的に森を守ることには繋がりませんが、狼少女の私がコミュニケーションの新しい可能性を突き詰めていくことで結果的に、森や狼たちへの注目を集め、それが守るということに繋がると思うのです。
何卒、よろしくお願いします。
1990/8/12 Cathy Elizabeth
『入学半年後、レンジャー施設に向けて送られた手紙』
施設の皆様。
いかがお過ごしでしょうか。
こちら、イリノイ大学は雪に包まれています。
私は、元気です。
大学にはたくさんの人がいました。
こんなにもいろんな種類の人がいることを、私は知りませんでした。
施設で見た本や写真で少しは知っていたつもりでしたが、私は全然知りませんでした。
見た目の多様性以上に、中身は多様であることを。
授業ではディスカッションがよく求められます。
私はまだまだ言葉が上手くないことを痛感させられます。
「敵意」と言うものが上手く扱えないのです。
森にはなかったからです。
森における攻撃は、生きるために単純で、捕食者と被捕食者の間に了解があるような気がします。
敵同士とは言え、そこには何かコミュニケーションがあり、互いを認め合っているところがあります。
しかし人間関係における敵意は何のためにあるのでしょう。
生きるためなのでしょうか。
私たち狼は、無駄に殺しはしません。
自分と自分の群れが生きること、それだけのために生きています。
人間は、無駄に殺そうとしているように感じます。
私たちにはない不安に追われているような気がします。
圧倒的に捕食者側であるはずなのに。
私は今、人間の群れの中にいますが、一人であると感じています。
仲間の作り方がわかりません。
話しかけたり、話しかけられたりしますが、コミュニケーションをしている感覚がありません。
ずっと群れの外にいる気がします。
施設で教えていただいたマナーが、こちらでは役に立っています。
少なくとも群れの外にいるということが、周りに見つからずにすみます。
見つかったら敵意を向けられることを私は知っています。
もうすぐ春の長期休みに入ります。
その時には森に行きたいと願っています。
人間の中に入ってしまった私の匂いを、狼のみんなが認めてくれるかはわかりません。
でもそこからも弾かれてしまったら、私には施設以外にもうホームと思えるところがありません。
弱音を吐いてしまいごめんなさい。
大学で学べていることはとても嬉しいことです。
知識が増えていくことはとても楽しいです。
ですから心配しないでください。
もうすぐ会えることを楽しみにしています。
1990/2/10 Cathy Elizabeth
『夏期休暇前の手紙』
もうすぐ一年が終了しようとしています。
ここまで走り切れたことを、私は誇りに思います。
春にそちらに帰った時に、森で過ごせたことが、私の大きな癒しとなりました。
しかし、私の家族である狼たちとのコミュニケーションが、前よりも困難になっていたことは、悲しい事実でありました。
群れのみんなの警戒心が伝わってきました。
さぞ、人間の社会の匂いが体に纏わりついていたことでしょう。
それでもみんなは、私を暖かく迎えてくれました。
共に陽だまりの中で寝転び、肉を食べました。
一言も発さず、ただそこに共にいるという時間に、豊かなコミュニケーションを感じました。
やはり私は、このことを研究したい。
大学での学びへの期待が湧き上がってきたのです。
休みが終わり大学が始まった時は人間の群れにおける壁の厚さに絶望しましたが、
私には帰る群れがあること、あのコミュニケーションを知っていること、そして使命があることが、心の支えになりました。
2年生になったらゼミが始まります。
少人数で教授について研究を進めることができます。
それなら少しは群れになれるのではないかと期待しています。
幸い私は尊敬できる先生を見つけることができました。
その人のゼミに入ることもできそうです。
そちらでまた、静かな時間を過ごすことができることを嬉しく思います。
こっちはずっと騒がしい気がします。
音自体は森の方が多いのですが、そう思ってしまうのです。
感覚を鈍らせなければ生きていけないような気がします。
そうしたくなくても鈍っていってしまうことに少し焦りを感じています。
テストがあります。
私が最後まで走り切ることができるようお祈りください。
私も皆さんの健康をお祈りしています。
1991/6/1 Cathy Elizabeth
『二年次、春期休暇前の手紙』
皆さん、お元気でしょうか。
私は少し疲れています。
久しぶりの手紙になってしまったことをお許しください。
ゼミに入り、研究が始まり、それ自体はとても楽しいです。
刺激的で、教授の知識は本当に深いのです。
教授は、私が狼少女であることを知り、大変興味を示してくれました。
そしてその上で私に尊敬を持って接してくださり、夕食に招いてくださったりしました。
同じ女性として、結婚することなく一人で、第一線で戦っておられる教授を、私も大変尊敬しております。
しかし、ゼミ自体は群れとは程遠いものでした。
会話はありますが、そこに真実はありません。
私は人間社会における壁の正体に気付きつつあります。
それは見栄とか、プライドと呼ばれるものです。
日本社会では建前と呼ばれるものだと教授は言いました。
生きたいという欲求を隠すことを美徳とされるのです。
そのために「方向性」に混乱が生じるのです。
狼たちは生きるという目的に真っ直ぐでしたから。
私は狼たちのコミュニケーションにはテレパシーのようなものがあると思っています。
時に経験や表情の読み取りなどを超えた意思疎通ができるからです。
それは私が、狼と生活していた時に持っていた違和感でした。
私には到達できない、狼同士のコミュニケーションがあったからです。
それができない私に対して優しくしてくれていたという事実があったのです。
狼ほどのレベルには達しないまでも、私は人間にもそれがあるのではないかと思っています。
なぜなら私にも、少しだけ狼たちと通じ合うことが当時はできていたからです。
それが同種族であればもっと高レベルでできるのではないか、という仮説を持っています。
しかし今の人間社会において、それは程遠い。
そんな中で、ときどき大聖堂に行って祈っているのですが、その時間だけが救いとなっています。
あの空間でだけは、騒がしさが遮断され、森に近い感覚を持つことができるのです。
そして時々、テレパシーに似た感覚を覚えます。
そこにヒントがあるのではないかと思っています。
私が皆さんを思う熱心さが、少しでもテレパシーに乗って伝わればと思っています。
皆様が健康で元気でありますように。
もうすぐ会えることが楽しみです。
1992/2/14 Cathy Elizabeth
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