小説『走る。』 2話
絵画教室は週に三回やっているらしい。
平日は夕方、土曜日は午前中から昼過ぎまでやっているということだった。
あの日はたまたまヌードデッサンの関係で平日の午前中にやっていたのだ。
運命の彼女の名前は紗良さん。
ヌードモデルというわけではなく、この教室の生徒で、バイトとして時々ヌードモデルをしているらしい。
あの時は堂々として見えたが、よくよく聞いてみるとすごく恥ずかしかったらしい。
それを聞いた瞬間は、「やめたらいいのに!」という思いが湧いたが、あの時の感動を思い出して口にストップがかかった。
純粋に芸術を愛していて、応援している気持からそういうことをしているんだ。そう思うことに決めた。
決めたはずなのに、自分も含め教室の後に思い出して、男がそういう感情を持つということを彼女はわかっているのだろうか、だとか、本当に嫌な気持ちはないのか、だとか、我慢してるんじゃないのか、だとか、後からもやもやと心配が湧いてきた。
でもこの心配は、彼女の心配をしているふりして、自分が独り占めしたい気持ちが混じっているのかもとか思って、嫌だった。
土曜日になり教室に赴く。
教室までは歩いて二十分ほどで着く。
それにしても昨日の飲み会は最悪だった。
課長のくどくどと長い過去の話。
思い出したように始まる説教。
同じ課の同期の男は、やけに絡んできて、おれを話のネタにだけしては女の子のウケを狙う。
それに簡単に笑う一年目の後輩女子もいた。
なにかどっと疲れた。
間違いなくああいう場所は苦手だ。
酒には強いわけでも弱いわけでもなかったが、どうして酒に酔う必要があるのかわからなかった。
それでもある程度飲まなければ許されない空気を感じるから飲む。頭がガンガンする。
くそぉ、1週間、この土曜日を楽しみにしてたのに。
教室についた。やはり体の調子は良くない。
行くと自分の席が用意されていて、そこに座って辺りを見回す。紗良さんの姿はなかった。
仙人先生が奥の部屋から出てきて真ん中の台の上に鷲のはく製のような、リアルな鷲の置物を置いた。そして周りが一斉に描き始める。
「こういうのって、初めはリンゴとかからちゃうんかな?」と、思った。でも実はうれしかった。
リンゴなんて別に描けるようになりたくはない。
こっちのほうが絶対に楽しい。
鉛筆で三十分ほど描いて、仙人の合図で描くのを止める。
そしてその後、周りは自分の製作途中の絵を取り出して描き始めた。
仙人は教室を回って、一人一人に丁寧に指導をしていくという流れ。
「君はこの鷲の続きを描きなさい。
自由に描いていい。
また鷲の背景も考えて描いてみなさい。
画像などを見てもいいが真似してはいけない」
そう言われて、約二時間、鷲を描き続けた。
描き方を教えてもらえるものだと思っていたが、描きだすと自由に描くのが楽しくて、やっぱり仙人はよくわかっているなぁと思った。
こんなに長い時間集中していたのはいつぶりだろう。
大学受験の時でもこんなには集中力が続かなかった。
目の前には鉛筆で描いた、鷲の絵が完成していた。
鷲は羽ばたいていて何か獲物を掴みに行っているような姿勢だったので、木の葉っぱとその奥の空を背景とした。
我ながらなかなかうまくできたと思った。
ただ、目の部分だけうまく描けなくて、まだ白いままだった。
振り向くと紗良さんと仙人が立っていて、絵を見てニコニコと笑っていた。
「やっぱり私、あなたの絵好きよ」
「僕もだ。やはり線には迷いがないし、君の中身がよく見える。ただ、目は難しかったみたいだね。
生き物を描く時、人間も含めてだが、目が一番難しいんだ。目は大事に描いた方がいい。
どれ、私が試しに描いてみようか」
そう言って、すらすらと目を描いてしまった。
その上手さにびっくりしてしまった。
なるほど、光と透き通っている感じを入れるのか。
そのあとも影の入れ方など何点かの指摘をしてもらって直した。
どんどん自分の絵が良くなっていくのがわかり、すごく楽しかった。
しかも自分のこだわりというか、好きなところはうまく尊重してくれた。本当にすごい人だ、仙人だ。
そう思って見とれていると、最後に仙人が、
「僕はね、まずは絵を好きになってもらいたいんだよ。
絵を通して、見えなかったものが見えるように、知らなかったものを知るように、なってほしいんだよ。
だから技術は教えるけど、そこまで気にしなくていいと思っている。
そして何より、僕が人間というものを知っていくことにすごく興味があるんだよねぇ。
だから窮屈にならないで、僕に人間を教えるつもりで無理なく来てください。出会いに感謝です」
と、言った。ずっと年上なはずなのに、仙人の目は誰よりも若い気がした。
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