公園ミニストリーについて
思い
公園伝道ではなく、
「公園ミニストリー」
(相手を言葉で変えようとしないということ)
公園が公園のままで教会になればいいな
まだ具体的ではないが、そんなふうに考えている。
ここが、
ともに教え合える松下村塾のような「教育の場」に
心の傷が癒やされる「医療の場」に
福音が語られる「宣教の場」に
なればいい。そこには建物は必要ない。
と、理想を抱いている。
教育は、
問うことから始まり、
僕が教える場ではなく、
教えられることで教え、教えることで教えられる場に、
医療は、
聞くことから始まり、
静まり委ねることで癒やされる場に。
癒やされていくことが癒しになるように。
宣教は、
言葉ではなく、生き方とへりくだりによって。
いかに恥から自由か
虚しさから自由か
プライドから自由か
創造性と楽しむ力を持って、その喜びを分かち合う友になっていくことで
共同体の輪が広がるイメージ。
そんな場所になればいいな、と。
ここまでの経緯をざっとまとめよう
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1. 引っ越し
始まりは団地に引っ越してきたことから。
団地の隣の公園は、車道を挟まず行ける、山の上の公園。
フェンスに囲まれ、その外側には山がある。
小学生男子たちは「やまおに」と称して、ひたすら山で鬼ごっこをしていた。
娘が1歳だったので、最高の空間と思った。
少しの心配で、娘の手を離して見守ることができる。
これぞモンテッソーリと思った。
2. 砂場ミニストリー
その頃、引っ越す前に娘が砂場遊びが好きだったことから、
砂場への思いがあった。
でもその公園の砂場は草がボーボーで荒れていた。
草抜きを少しずつしていくことを決心した。
それを「砂場ミニストリー」
時々、ゴミ拾いもした。
抜いても抜いても見た目にはなんの意味もなさそうなこの奉仕が、
自分には必要に思った。
無駄なことをしよう。少し恥ずかしいことをしよう。
冬になって草は無くなっていったが、
アリがたくさんいた。
仲良くなったお母さんから、
「せっかく草を抜いてくれたから、うちの子を遊ばせようと思ったけどアリが、、、」と言われた。
そりゃだめだ、、、
それでも草を抜き続けた。
砂場で遊び続けた。
そしたらアリも減っていくだろう。
そしてすっかり草がなくなった頃、
春が来て、また大量に草が生えた。
なるほど、そうくるのか。
しかし、抜いたことは無駄ではなかった。
去年よりも草は少ない。
そして何より、小学生の友達ができた。
それには娘が隣にいたことが功を奏した。
圧倒的に怪しくない!笑
30代男性は、その恥とも戦わなければならないのだ。
ある時、
「この前、公園に山ができてて、あんたが来てたんやなとおもたわ〜」
と小学4年の女子に言われて泣きそうになる。
これは良いぞ
3. 秘密基地ミニストリー
砂場の草も抜き終わり、
雨の後も夏になっても全然生えなくなった。
生えたとしてもほんのちょっぴり。
それと引き換えに、小学生の友達は増えていった。
公園にいると、小学校の帰りに横を通り過ぎる子達は大体顔見知りに。
呼び捨てで遠くから呼びかけられる。
娘はちゃん付けなのに、、、
そしてポツポツと話せるようになっていった。
そこでフェンスの外の山の中に、
本気の秘密基地を作ることにした。
テーブルや椅子、日光をしのげる屋根
穴を掘って池を作ったり、花が咲くのも良いな。
本気で木を集めてきて、
石を集める。
そうすると小学生が寄ってきてくれて、
本気で集めてくれる。
壊す奴もいる。
それでも意に介さない。
また作れば良い。
砂場で山を作るのと同じだ。
高い山をつくってれば子供達は集まってくる。
初めはふざけて壊そうとしてくる。
でも作り続けると一緒に楽しむようになる。
秘密基地は今も継続中だ。
そこが一息つける場所になれば良いと思う。
すこし距離をとって。
礼拝とは休む場所だ。
ありのままの裸の心を神の前に"ささげ"見せる。
そうやって休むのだ。週の六日から区別して。
[番外]地域に入る
夏休みのラジオ体操に毎日行った。
朝、なんとなく7時に起きてしまって、
祈りに外に出た時に、
前に下ネタを叫んでいたのを笑ったら喜んで仲良くなった小六男子達に出会い、ラジオ体操に誘われた。
その日から毎日行った。
8時15分から始まるという珍しいラジオ体操で、
ちょうどよかった。
時々、娘も連れていった。
普段会えない子供達もたくさんいて、
一気に仲間が増えた。
ほぼ毎日ラジオ体操後に二時間ぐらい遊んだ。
鬼ごっこはキツかった。。。
そのうち、親が僕の顔を見にきた。
そして娘がいたり、奥さんがいたりして安心してくれた。
当然の警戒である。
4. そして公園ミニストリーへ
夏が終わり、ラジオ体操ほどみんなには会えなくなったが、
友達にはなれた。
確実に知り合えた。
小六男子達は週に一度は遊ぼうよと誘ってくれた。
嬉しかった。
いつもは遊べなくても、
友達になれたのだ。
なにかあれば出会えるだろう。
相談してくれるだろう。
なにより、祈ることができるのだ。
そして公園で祈ることを始めた。
ここが教会になるように。
ここが癒しの場になるように。
ここが成長の場になるように。
ここが救いの場になるように。
具体的に考えなければならないことはたくさんあるだろう。
しかし、今、祈らされていることは、
このまま行くということだ。
公園に居続ける。
公園を楽しみ続ける。
公園で対話し続ける。
友達になる。
それが公園ミニストリー。
そこに救いがあるように。
さいご+自分の神学のまとめ
この決意が今後、どのように変わるかはわからない。
すぐに心が折れてしまうかもしれない。
経済的に難しくなるかもしれない。
でも、今やってることは無駄じゃない。
続けることだけが大事じゃない。
今を生かされ続けることを求めて。
それが自分の自由になると信じて。
恥が自分を縛っていることに気づく。
子供たちにそれが癒やされていることに気づく。
評価への恐れに気づく。
公園にいる時間がそれを癒していることに気づく。
虚しさへの焦りに気づく。
祈りがそれを癒していくことに気づく。
僕にとって、福音は、
「虚しさからの救い」なのだ。
僕らのすべてを知っている方が、
僕らのすべてを導いてくれる。
だからすべてが無駄じゃない。
だから虚しさから救われる。これが福音!と思っている。
僕らは殺されてきた。
「やりたい」という思いは、
「すべき」に殺され、
「恥」という鎖で縛り付けられた。
しかしそれは不安から身を守るための殻でもあった。
この公園ミニストリーで僕は、
僕自身が救われていっているのだ。
今この一本の草を抜くことが無駄じゃないのなら、
この子に優しい言葉をかけることが無駄じゃないのなら、
共に笑うことに意味があるのなら、
僕はなんと救われることだろう。
無駄からの解放は、恥からの解放だった。
「やっても無駄なことをやってること」が自分にとっての恥だと気づいた。
でもそんなものどこにもなかった。
そして表現者は、とっくにその岸の向こう側にいた。
尊敬した。
そして僕の心が報われた。
自分の中から出てくる気持ちやアイデアを大切にできるようになった。
そして相手の気持ちやアイデアを大切にできるようになった。
自分も相手も殺すことを少しはやめられた。
伝道とは、宣教とは、
友になることだ。
足を洗い、足を洗われることだ。
教えられ、教えることだ。
キリストは友となってくれた。
全地全能、天地創造の神が、マブダチになってくれた。
だから僕も、友になる。尊敬する。
応援してください。
僕も応援できますように。